戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

当事者意識の欠如とその愚かさについて①

 

 

その文章は、このタイトルと副題で始まる。

 

『差別ってなんだろう?』


差別はよくないってわかっているけど、自分は差別をしていないと言い切れるのか。
世の中から差別をなくすことはできるのか。そもそも差別ってなんだろう?

 

冒頭、今アメリカで起こっているジョージ・フロイド氏の事件を発端にした黒人差別問題に触れた後、こう続く。

 

肌の色

日本ではどうだろうか。日本に住む黒人のルーツを持つ高校生ぐらいの女の子は、小学生の頃、図工で自画像を描いた時、いわゆる肌色を塗ろうとしたら、男子に「○○の顔は肌色じゃないじゃん」と言われて嫌だったという。それは差別だろうか。 

 

差別です。

 

実際の色と違ったことを指摘しただけなのに。例えば「○○の目はそんなに小さくないじゃん」と指摘されたのだったら、どうだったのか。

その男の子の言い方には蔑んだ意味合いがあり、そのために嫌だったのかもしれない。

でも、そもそも彼女はなぜ自分の実際の肌の色とは違う色で塗ろうとしたのだろうか。 そして、それを指摘された時、もしそれが悪意ある言い方ではなかったら、嫌だと思わなかっただろうか。

おそらく、彼女自身の中にも「黒い肌は好ましくない」という刷り込みがあったのだと思う。それはアメリカの黒人たちの間でもあることで、彼らも「少しでも色が薄い方がいい」という考えがあるそうだ。それならば、差別意識は本人の中にもあったということか。

 

そもそも、自分だけが周りと違うという現実を心地よく受け入れることができる子供というのは、よっぽどの変わり者か、よっぽど「違う」ということが素晴らしいことであると教育されて納得できた子供だけだろう。

対して、戸目子自身を含めなんにも考えてない多くのマジョリティの子供たちは、自分の肌の色について意識することすら稀なんだ。意識せずに済むという特権を持っている。

そんなマジョリティ側とマイノリティ側というのが全く異なる視点であることを無視して解釈することで「あの子は事実を指摘しただけなのに」という上記の反応が生まれる。その言葉は、これまでその人がいかに恵まれ、その特権を認識してこなかったかを物語っています。

その女の子がどういう理由で自分の肌の色を皆と同じ色で塗ったのかは誰にもわからない。一人だけ違うのが嫌で皆と同じにしたかったのかもしれないし、幼くして既に植えつけられた劣等感からかもしれないし、あるいは何も考えてなかったのかもしれない。いずれにしろ、そこへわざわざ「キミのやってることは違うよ」と言われたのだ。

 

この筆者は、最初から最後まで一貫して「差別する側」の視点でものを考えていて、繰り返し現れる「これは差別だろうか」という問いとともに、差別心を擁護する試みすら感じます。

それに対して「それは差別」と断言できるのは、戸目子自身がかつてこの問題で思考停止に陥っていて、それゆえにたくさんの間違いを犯してきた過去があるというのもあり、それについては別エントリ②に書き残しておきます。

 

昨年、大人気になったテニスの大阪なおみ選手をアニメ化した日清のコマーシャルで、その肌の色が論争になった。明らかに本人の肌の色とは違い、白っぽく描かれている。これを見た人たちが「わざわざ変えるなんて、黒い肌がいけないみたいじゃないか」と主にインターネット上で騒ぎ出した。結局、日清は配慮に欠けていたとして謝罪し、動画を削除した。

この場合は、さっきの女の子とは逆のように見える。ありのままの色と違う色を塗ったのが「尊厳を傷つけた」と。では、どうすればいいのか。実際よりも少しだけ薄めに描けばよかったのかな。少し美人に描いてもらえば嬉しいのと同じで。いや、そうだとすると、やはり「白い方が美しい」価値観に縛られていることになる。 

 

当座の目標は、人を見たり知ったりするときに「肌の色」をその人の最重要情報としなくなることだと思います。

それにはどういう働きかけが必要だろうか?と考えたとき、難しい問題ではあるけれど、少なくともそれは黒人を白人のように描くことではないし、黒人の真似をするときに顔を黒塗りにすることではないでしょう。(このホワイトウォッシュ/ブラックフェイスは、それぞれ別の問題だけど)

 

プロ野球楽天のオコエ選手は、日本生まれ日本育ちだが、幼少期から肌の色のことでつらい思いをしてきたという。保育園で親の似顔絵を描いた時、茶色のクレヨンで塗ったら、皆に笑われた。小学生の頃は肌の色を嘲笑われ、ケンカを売られた。

子供は残酷だから・・・。他と違う姿を受け入れがたいのかな。白人の子だったら、どうなんだろう。

 

アメリカの番組で興味深いエピソードが紹介されていました。

全く同じに描かれた5人くらいの女の子のイラストが一列に並んでいて、肌の色だけ右に向かってだんだん濃くなっています。それをある幼稚園児たちに個別に見せ、「一番悪い子はどの子?」と聞くと、全員が一番右の子(一番色の濃い子)を指していました。

結果をその両親に知らせるとすごくショックを受けていたけど、その一人が「多様性にさらされてないからだと思います」と涙ながらに答えていたのが印象深かったです。確かにその幼稚園は白人ばかりの環境だった。

多様性にさらす環境はもちろん、大人や世間からの積極的な働きかけもとても大事だと思います。

また、もし黒人だけの幼稚園で同じ質問をするとどうなんだろう?とも思いました。

 

 

私の中に差別意識はあるか

今はもう、それなりに社会経験も積んでいるし、黒人の方と接する機会もあったので、特に差別意識は持っていないと思う。

 

文章全体が、オブラートに包まれてはいるけどKKKをも彷彿とさせるロジックに満ちている。にも関わらず、ご本人は差別意識は持っていないと考えている。 

白人レイシストの常套句が「親戚に非白人もいる」「非白人の友人がいる」「非白人をたくさん雇っている」等であることは有名。
一番わかりやすい例は、トランプ大統領の「オレの妻は移民」。

 

でも、20代の頃、カナダ旅行中にトロントの地下鉄に乗った時のことを思い出してみる。乗客がほとんど黒人だった。妹と2人だったが、正直いって、かなり怖くて緊張した。あれが白人に囲まれていたのだとしたら、あのような緊張はなかったと思う。だから、やはり「黒人は怖い」という意識があったのだろう。

それは差別だろうか。

 

 差別です。

 

例えば、電車に乗ってどこに座ろうか見渡した時、私は男性の隣には座りたくない。そういう席しか空いていないなら、余程のことがない限り立ったままでいる。これは差別なのか?自衛なのか?黒人の場合とどう違うのか?私は、黒人女性の隣なら座ると思うから、黒人差別より男性差別?ちょっと違う気がする。

 

人種差別であり、性差別です。

これが典型的な Whataboutism と呼ばれているもの。"じゃあこの場合どうなん?" (What about ~ ?) とまったく別の問題を持ってきて比較することで、問題を矮小化させる。
この場合、差別意識と女性の自衛意識をミックスさせて正当化を試みています。

 

ちなみに、対象が人種であれ階級であれ性別であれ、ある差別問題をそれなりに認識している人は、他の差別にも敏感であることが多いです。あらゆる差別は構造が同じだということに気づくからだと思っています。

 

 

目立つということ

日本に住む外国人がよく言うのが「常にジロジロ見られるのが嫌」だ。その気持ちもわからなくはないが、仕方ないではないかとも思う。

日本には日本人がほとんどで、その中に違う人種の人がいたら、どうしても目を引く。あまりジロジロ見るのはさすがに失礼だと思って、わざわざ見ないようにしたりするが、それも不自然だ。

 

だんだんとエスカレートしてきてます。今や「目立つもんは仕方ない」「そんなものだ」の方向に流れようとしている。

では今回、黒人差別というむちゃくちゃ強烈な、リアルタイムで立ちはだかるデカイ題材まで持ちだして問題提起した意味はなんだったんだろう?殺人しなければまあOKてこと?

では、それまでふつうに共存していたはずの在日朝鮮人が、関東大震災の直後に日本人によって虐殺されたのはなぜだ? 突然に差別意識が降って湧いたわけじゃない。
当たり前だけど、差別心に国籍はない。

 

日本人だって、超絶美人なら同じようにどこでも皆の目を引くだろう。振り返ってジロジロ見られるだろう。それとどう違うのか。

 

この違いがわからない状態で、人種差別を語ろうとしたのだろうか?!

これも Whataboutismによる正当化・普遍化のねらいです。

ちなみに、人をジロジロ見るという行為は、その理由が驚愕であろうが憧憬であろうが興味であろうが失礼です。「わざわざ見ないようにするのも不自然だ」とあるけれど、不自然に感じるという個人的な事情から人に失礼をはたらくのだろうか。

 

人はそれぞれ違う。その中でも、特に見た目が他の人と際立って違う場合は、注目されるのも仕方ないと思う。

ただ、それが悪口や嫌がらせにつながると別問題だ。差別というより、いじめだ。

 

差別はいじめとどう違うのだろうか。

 

おそらくこの筆者は、差別思考と差別行為を分けられると考えているのだろう。
残念ながら、差別思考というのは本人の意思に関わらず滲み出てしまうもの。上記にあった子どもの何気ない発言や、人をジロジロ見るなどの行為はもちろん、ここぞというところで予想を超える威力を発するのは、歴史を見ても明らかです。

 

人間であるうちは、すべての人が人種や性別で差別される側になり得るし、明日にでも障碍者になり得るし、自分は関係ないと思っていても愛する我が子がLGBTQに深く関わったりし得る。そしていつでも無意識の加害者になり得る。

人間は皆当事者なのに。

 

私達には、好みもあるし親しさの差もあるから、すべての人を同じように扱うことはできないが、見た目で相手を傷つけるようなことはするべきではない。

そういえば、子どもの頃「身体の特徴など自分で変えることのできないことについて、からかったりバカにしてはいけない」と教わらなかったか。それを忘れてはいけないと思う。

 

最後はTHE・正論ですね。

 

 

この筆者にはもちろん悪気はない。差別を肯定したくて書いているわけでもない。問題なのは、当事者意識が欠落していることによる「差別問題の矮小化」です。どこかに、差別問題を考えることは面倒くさいという思いがあるのだと思います。あわよくば "被差別側" の意識が少しでも変わってくれたら、物事がおおごとにならず万事オッケーじゃんというやつです。

 

 

また、世の差別を語るとき、必ず現れる「差別をゼロにすることはできない」(だからある程度の問題は仕方ない)派。

世の中のほとんどはそもそも0か100かで成り立ってはいないから、差別を根絶できるかどうかと考えたり目標にするのは無謀です。身体のどこかが病気だからといって、じゃあ死ぬしかないとはならないように。

自分の中にある差別意識のひとつひとつと向き合って、少しずつ前進していくしかない。

 

でも、いわゆるマイノリティとよばれる人の、その人生はとてつもなく疲れるものです。自分のマイノリティ性を意識しない日はなく、不快感やハラスメントを受け得る覚悟や辛抱というストレスに晒されて、人によっては理解を得るためにリスクをおかして声を上げる。

だから、仮に当事者感覚が持てないのであっても、せめてその当事者たちが上げる声の邪魔にならないこと、「自分の思うところ」や「理解できない理由」を一旦横に置いて、その声を受け入れることが問題解決の第一歩だと考えます。

 

 

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"常にどちらかの味方につくべき。中立でいるということは、被害者ではなく加害者を助けることになる。"   ─エリ・ヴィーゼル