戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

当事者意識の欠如とその愚かさについて②

 

去年夏、ロンドン滞在中のこと。
当時4歳の娘が、寝る前のおしゃべり中に突然放った言葉に戸目子は戦慄した。

「ダディは(肌の色が)ブラウンだからキライ~」
‥‥‥

 

 

キタ━━━━━(((゚Д゚)))━━━━━!!!!

 

と思いました。とりあえず冷静を装って「それは言ってナイスなことではないね」と伝え、その後一人「幼児 差別発言」とかググる戸目子。

 

ちなみに、両親のちょうど中間をとったような娘の肌の色はとてもきれいで戸目子はよく見惚れるんだが、、もしもっと濃かったらと考えると、たぶん3、4歳あたりでそれを意識し始めて苦しんだかもしれないなと、娘をみていて思う。そういう事に敏感なタイプだから、なぜ自分だけ?と思い悩むと思う。
その場合、親側にできるアプローチとして可能な限り似た背景をもつ子供やコミュニティに娘を連れ出しただろう。そういうことが可能なのは都会の良いところ。

 

子供たちを観察していると、例外のケースもあるけれど、やはり「自分に近い特徴をもつ人間」に親近感を覚える傾向を感じる。誰が味方で誰が敵となり得るかを見極めるための、一番簡単(安易)で本能的な方法なんだろう。

でも、そういった原始的な方法の多くは根拠がないもの。今では「異質性を異質な目で見る」ことは有害だと認識されるまでになった。

自分たち VS それ以外のもの。この区別はほぼ全ての人間の得意分野だ。「差別についてあまり考えたことないけど自分は差別なんてしない」と言ってるだけでは、必ずどこかで無意識にその差別心を体現してしまう。

 

 

戸目子が住んでいたパリの郊外はいわゆる高級住宅地だったが、そこからパリの中心地を繋ぐ電車は途中で貧困街を通った。その駅のエリアには多くの移民である黒人やアラブ人が住んでいた。戸目子の知り合いにも、その駅に停車中の車内でスマホを盗られたことや盗られそうになった人が数人いたけど、わたし自身は特に警戒してはいなかった。

ある日、パリ中心地に向かっていた夜十時頃、なぜかその日に限ってバッグと自分を離して座っていて、あまりひと気もない車両で窓の外を見ながら考え事をしていた。そして問題の駅に停車中、ドア付近にいたグループの一人が戸目子にゆっくり近づいてきたかと思うと瞬時にバッグをひったくってドアから走り去った。

即事態を把握し怒りでパニックになった戸目子は、

「ヲーー!!!!アイツらをつかまえろぉぉぉぉぉぉおぉぉ!!!!!!!ギャアアアアアアア」と叫びながら全速力で追いかけた。

というのも、運悪くそのバッグには戸目子のすべてが入っていた。現金やカードの詰まった財布やカメラはもちろん、(翌日にそのまま滞在許可証の申請に行く予定だったので)パスポート、苦労して集めた書類、真新しい銀行のカードを入れた封筒にはなぜかご丁寧にパスワードまで書いている。(不幸中の幸いで、犯行グループは若い少年たちだったので狙いは現金のみ。財布とカメラは消えたが、パスポートも重要書類も特別な(!)銀行カードも全部、バッグごと捨てられていたのを後日警察が見つけてくれた。あの時は、少年たち、ありがとうよ!!となったくらい安堵した。)

周りの人たちには犯人を追いかけてくれる人もいたが、なんか小さいマツコデラックスみたいなアジア人が泣き叫び狂って全力疾走してる光景に (゜д゜)ポカ-ン てなってた人もけっこういた。

途中警察官の群れが見えたのですぐさま助けを乞い、パトカーに乗って犯人を探すことになった。そのとき戸目子が唯一伝えた犯人情報が「アラブ人」。

警察は、戸目子の顔が外から見えないように隠しながらゆっくり車を移動する。そこらへんを歩いているアラブ人や黒人を見つけるたびに一人の警官が外へ出て、その人の首元をグッと掴んで顔にライトを照らす。そしたら、車内で戸目子の顔を隠している警官が「こいつか?」と聞く。

え、、犯人とは限らないのになにこの扱い・・となんか気持ち悪くなってきて三人目くらいで捜索をやめてもらった。そもそも犯人たちがこんな直後にフラフラ歩いてるわけないし。

わたしが「アラブ人」と言わなかったら?でもその街はアラブ人と黒人がほとんどだから、結局同じようにしたのか?

何もしてない、ただ歩いてるだけでいきなりパトカーから出てきた警察に首根っこを掴まれて顔にフラッシュライトを当てられる、なんの説明もなく。そんなことがあっていいのか?てか普段からそんな扱いがまかり通ってるなら、本来の目的である「移民との健全な共存」なんかできるわけないじゃん。負の連鎖しか生まない。

あの時、「肌の色を理由にゴミみたいに扱われる」光景というのを初めてこの目で見た。しかも自分のせいで。そのなんとも言えない嫌な思いは、今でも引きずっている。

あれから十年、また大きく動き始めた人種差別問題の煽りを受けて、あの街も変化し始めたのだろうか。

 

 

なんせ都市部というのは人種が多様だから、戸目子は初対面の相手に「オクニはどこ?」的なノリで気軽に相手のルーツを聞いてしまうところがあった。明らかに生まれ育ちや住んでる場所は今いる国なのに、見た目が純白人ではないと判断するや当然のように聞いたことが。

その時々はみな教えてくれたけど、一人「アメリカ」と答えた人がいて、うんでもだからオリジンは?とか更に食い込む戸目子はもうバカバカバカバカバカ!! (ひょうたん島風) (こういう、無知ゆえのバカ質問は他にもある。)

と気づいたのは、ある時アメリカのスタンダップコメディ(どの人か失念)を見ていたとき。

「それマジでウザいから。」「誰のための質問?」「答え合わせしてんの?」「それ知ってなにを思うの?」「その人は同じ質問を何万回聞かれてきたと思ってんの?」等、見事な代弁トーク。見ててウッッとなった。

 

ほんとそうだ。何のための質問なんだ。

そもそもその質問してる時点で自分の中にあるなんらかのステレオタイプと結びつける気満々なのだ。自分の知る小さくて偏った先入観の確認作業をするために、なんで初対面の相手が答えてくれるのを当たり前と思うのだろう。

日本から海外に出て「どこから来た?」「日本人?」と聞かれても悪い気しないという人もいるけど、それとは状況や背景が違ったりする。というか日本人でも海外生活が長い人はそんなん嫌気がさすって人も多いだろう。

 

 

あらゆる意味でコメディの偉大さを思い知る。特にアメリカなどは、実際にコメディアンがスタンダップコメディや番組を通して、世論を大きく動かしたり人々を啓蒙してる部分が大きい。

最近のお気に入りスタンダップコメディアンは Katherine Ryan (キャサリン・ライアン)。Netflixで見られる彼女の新作は必見!!どんどん引き込まれていきます。

 

 

 

 

戸目子は「日本人」であることで、個人的なレベルで人種差別を受けた!と思うことはなかった。でも多分それは単に気づいてなかったからだろう、と今は思う。その証拠に、生まれ育った日本で受けた数々の性差別は、それが性差別なのだとは当時はまったく気付いてなかったからだ。

 

パリに来て一番最初に立ちはだかる壁が、滞在許可証の申請手続きというのは有名な話。これはしかも毎年更新するたびにあの恐るべき建物に行かねばならず、毎回臨戦態勢で挑んだものだ。特に戸目子の管轄は酷いので知られてたエリア。一番優しそうなヒトに当たることを祈りながら数時間待った挙句、油断してこちらの言葉に英語でも混じろうものならその日はオシマイなのだ。徹底的にやり合うか引き下がるか、一触即発という状態。

でもこちらは何としてでも許可証が必要なので、例えどんなに理不尽であろうと相手側の"事情"を汲み取って汲み取りまくって、自分を納得させなきゃいけん。そうやってこの数時間だけひたすら無我の境地を貫けば、神々しいアレが手に入るのだ。

こういう役所などはもちろんだけど、サービス業であっても日本のようにスムーズには全然いかない。

そういった「パリあるある」で鍛えられてた部分は少なからずある。そして、戸目子はそれを他者の差別問題に応用してしまうところがあった。

 

差別されたと怒る相手に「相手に悪意はないかも」「別の理由(事情)でそうしたのかも」「よくあることだから」、だから気を落とさないで、というような、とにかく目の前で差別被害を訴える相手に対して「善意で」発想の転換を提案したり、悩む相手を卑屈だなと思ったりすることすらあった。これは典型的な思考停止だった。

 

それは差別か?!と疑問に思うような些細なことだったり、非現実的に聞こえたりすることも中には含まれる。

でも、被差別者にとって「相手に差別の意図があったか否か」なんてまったく関係のないこと。被差別側が敏感になるのは当たり前なんだ。敏感にさせてしまう社会構造こそが問題なのだ。そして、被差別側の声にひたすら寄り添うことでしか解決の道はないという認識を共有しなければならない。個人が変わるのではなく、社会が被差別側に合わせて変わる必要があることを。

 

 

 

 

 

その日メモ :

いきなりセミの音が聞こえなくなって、夏の終わりを感じる。今年の夏は一瞬だった!

 

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涼しくなってきたので、自転車で池袋まで。
@久しぶりの南池袋公園