戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

知との遭遇 ③【宗教とBくん】

 

前回、「続きは次回に」とか宣言したおかげで、「すきにさしてや」と (自分に) 反抗してたら2ヶ月弱経ちました。
やることが決まった状態だと途端にやる気が下がるのはどうしてか。相変わらず毎日のランダムさを「豊かさ」だと勘違いして生活しています。

 

前回のエントリは、なかなか趣旨があっちこっち行っててまとまりがなかったな、と反省したが、今回もそうなります。

当時Bくんとはかなりの量の会話を重ねたものの、特に思い出す内容といえば、オスマン帝国を熱く語る彼に「男男した名前よね」とつっこんでたことくらいだし、あれほど嬉々として繰り広げた会話の内容や得た知識は一体どこへいったのかしら。

でも、知識そのものより大事なのは「体系的に思考できる」ようになることであって、それなしには知識は単なる情報に過ぎないし。

一方、単なる情報としての知識も必要だと思うのは、先の人生の中で(あっあの時知った○○はコレのことだったのか~!)という気づき、
─それまで "他人事" でしかなかった知識が再認識されて、自分の作品のように "新しい現実" として形作られるプロセスが、誰にとってもワクワクするものだろうと思うからです。
まずは他人事の知識でいい、戸目子も子供時代にその愉しみを経験できていたらなあ!と何度思ったか知れません。
自分の思考体系にやっと少しずつ応用が効き始めたのは、Bくんとの会話が大きく影響したと思っています。
ものすごいパッションを真摯に伝える人たちには、いつもインスパイアされてきました。(※盲目さとは別)

 

それにしても、戸目子は80年代生まれだけど、10-20代前半に、今ほどネットに触れて過ごすことができなかったのは、とても残念に思います。
(むろんネットの有害性の部分では、GAFA始めメディアを作る側が、倫理的な準備が全く整わないうちに見切り発車した責任を取るべきだし、今のアメイジングな子供たちが大きくなる頃には絶対に解決していてほしい、と切実に望む。)
と同時に、かつては、リアルで会う人・付き合う友人関係が自分に及ぼす影響が、今と比べて何倍も大きかったと思えてなりません。戸目子のおばあちゃん世代なんて、隣のイチ家庭が全日本を代表する勢いだったし。
情報が流れない世界(時代)の、人々の生存戦略ね。今でも変わってない部分はあるけど。

そんな当時にポツポツとあった素敵な出会いと経験は、こうして改めて文章にしていると、とてもありがたく思い起こされます。

 

 

宗教

東欧の国々を渡り歩いていると、とても敬虔なクリスチャンが多いという印象をもった。

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2008年夏ワルシャワにて/友人撮影
膝をついて祈りを捧げる人が見える

 

社会を形成し、そして限られた情報の中でうまく生き残ってきた人間にとって、宗教が人類発展にもたらした功績はすさまじい。

宗教こそは、他の何よりも
①「身内」の絆を盤石にし(「身内」以外を虐殺し)、
②個人に安心と安定を与え(不自然な規律で抑圧し)、
③絶対的なものを信じる快感を与え(思考放棄)、
④効率的な家族至上主義等の徹底(人権侵害)、
⑤ときには思い込みというウィルパワーで心身の不調まで回復させる(スピ効果)という絶大なバックボーンとして大活躍してきた。
哲学がそこに "待った" をかけ始めるまで、宗教は行き着くところまで行ってしまった。
(以上、戸目子の偏見による要約)(仏教は別、とか言わないでね)

 

といっても、個々人の視点からみると、信仰心に人生を捧げんばかりの人たちには「この人は信仰心に "生かされている" んだな」と妙に納得するし、宗教コミュニティという内輪の中だけで全人生を完結させる人々も、それはそれで楽しそうだ。
人は選択肢が少ない方が幸福を感じやすいという皮肉な構造を、どの宗教もうまく利用してきたと思う。

一方で、その古風な慣習とどうしても相容れない現代を生きる戸目子周りの若者たちの葛藤は、側から見ていても大変そうだった。その中の多くは、最後には教えに背く決断をしていた。

国が裕福になるほど、その豊かさに比例して無宗教者の数は増えている。 でも、宗教の "連帯" が人にもたらす快感に勝るようなものってあるんだろうか?
なんたって、全くキリスト教なんか興味ない上に罪犯しすぎの億万長者(自称クリスチャン)でも、彼が(得票のために)人口中絶に反対してるからってだけで大統領にと投票するような人が大勢いるのだ。
正義も思想もなく「トランプ支持者」を表明するがためにマスク着用を拒否する人たちが。
宗教とトランプとマチズモと反ワクチン等は親和性が高いが、どれにも共通するのは、「ひとつの信念(や利益) のためなら、その他多くの悪業やデメリットを丸々見て見ぬふり/免責しちゃう徹底した姿勢」だ。
これは宗教に限らずだけど、莫大なカネと権力を持つからこそできることがたくさんあるにも関わらず、肝心なところでスッタカ責任逃れをする点については、特にこれからは時代が許さなくなるのではと思う。
(ふと、ひろゆきやホリエモンあたりがよぎったが、日本はしばらく許すんだろう。許すどころか重宝がってるし)

 

話は変わって、2006年頃、ピアニストのネルソン・フレーレの講義を見に行った。その演奏や語りの美しさにシビレたが、最後にあらたまって彼が、
「音楽家は、一体誰のために演奏すべきなのか?
 聴衆のため? 自分のため? 
 ──ちがう、  ゴッドのためだ....!」とドヤ顔したとき、戸目子は一瞬で引いた。
その後の質疑応答で(あの~、無宗教の音楽家は誰のために演奏すればいんですかぁ~?)と聞こうかと一瞬考えたけど、なんとなく控えた。
「自分で見つけるしかない」と答えるんやろなと予測したからだけど、、一応質問しとけばよかった!!と今悔やまれます。

彼のような信心深い芸術家が、そもそも宗教と全く無縁に生まれたとして、それでも芸術をやった場合、今と同じくらい美しく奏でただろうか?同じように音楽を愛せたんだろうか?
とはたまに考える。

戸目子も、ヨーロッパの夜の街なんかを徘徊していると、たまにその幻想的な空気から異世界な感覚に襲われて、神はいらした!とか叫んだことあるし、人間が神に捧げるために造り出した芸術作品の数々には何度も圧倒されてきた。

まあそれでも、世界宗教を漠然としか捉えてなかった戸目子は、相手が熱心に神や信仰心を語れば語るほど「カルトやな」としか思わなかったけど。
(今でも、既存宗教もカルトも、信者側の信仰スタンスにそう違いはないと思っている。教団側は別として。)

 

そして、ほとんどの信者は、既に "出来上がった" コミュニティの中で産声をあげて育つわけで、そこには自分の意思や選択みたいなものはあって無いようなもの。
また、無宗教者であっても、宗教と深く関わってきた歴史をもつ人間だから、育ちの中でなんらかの宗教性をまとっているものだ。
組織としての宗教が苦手な戸目子でも、信者個人やその生き様をリスペクトするし、その姿勢はお互いにとても大事だと考えます。

──いくつかの例を除いて...!

 

かつて頻繁に会って遊んでいた友人は、徹底したカトリック教徒らしいジェントルマンシップで戸目子と接してくれて、それはそれはマジ新鮮だった。
戸目子は、戸目子である前に「女性」なんだなぁと、あの時ほど強烈に意識したことはない。恋人でもないのに。
でも、宗教が纏う美しいヴェールの向こう側がふと見える瞬間が増えていった。

彼と最後に会った日のことは、今思い出しても地獄味ハンパない。
いつになく宗教の話を掘り下げていった中でセクシャリティの話が絡んだ時、あのいつも優しくて強くて楽しかった友人が別人みたいになって、同性愛は神に背く「病気」であり社会にとって「有害」であると言い始め、しまいには同性愛者を全員一纏めにして遠くの離島かどっかに隔離すべきだ、「正常な人たちに悪影響だから」と大真面目に主張していた。
彼は日頃から、(医者家系で子沢山の)自分のファミリーに誇りを持っていたので、そのYouの強烈な思想について家族のメンバーはどう思ってるのかと聞いたら、家族とはなんでも話し合うし、もちろん同性愛についても徹底的に議論すると言った。(でその結論が隔離なんかぃ)
このとき戸目子は、明らかに議論は無駄なのでほとんど意見はせず、一貫して質問に徹した。
でももちろん、その質問攻めは彼に威嚇と映っただろう。 あまりに必死な彼の様子に「えもしかして隠れゲイ?」て思ったほどだ。
そして、「あなたの (むっちゃ多い)きょうだいの中で、もし誰かが自分のセクシャリティに苦しんでいたらどうする?」と聞いたあたりから、うちらは永遠のエネミーズとなった。(不快感この上なかったのでそれから一切関わりないけど、今となっては彼のその後にものすごい興味あるから、ちょっと惜しいことしたと思ってる)(ちなみに「きょうだいにもしゲイがいたら、それは病気だから治るまで家族付き添いでセラピー通院させる」と言ってた。うざすぎやろ家族)

また、ヨーロッパに住む日本人で、成人してからキリスト教徒になったという人たちが周りにチラホラいて、その人たちを見ながら、キリスト教にはなんとなくファッション性があるのだなとも思っていた。
クリスチャンを名乗るけど、個人的な "救われ" 論(思い込み論)(それクリスチャンじゃなくてもいい論)だったり、キリスト教そのものに関してはかなり無知だったり。
でも宗教には、そういうアイデンティティが不安定な人々に帰属意識を持たせることで、何者かになれたような、何らかの指標や個性を与える役割もあるんだなと、興味深く思った。

 

こうした話はセンシティブな要素も含むため、今はまだしも、当時ガチで話せる相手があまりいなかった。そんな中、Bくんはとても柔軟な聞き手/話し相手になってくれた。
戸目子は、「ヤバイな」「最悪だね」「なんでそうなるんだろうね」以上の、思考を既に何周も巡らせた相手による共感を、最も必要としていたから。
(基本いつも必要としていますが。)

ただ15年も前の話。歴史にしろ宗教にしろ、Bくんも戸目子も「どっちもどっち論」に落ち着いてしまう傾向があったけれど。今ならまた違った方向性の議論になるのかな、とたまに想像する。

あと、彼とはよく(実力主義における文脈で)「環境か遺伝か」の話で盛り上がったけど、当時の戸目子は威勢の良い無知な若者らしく "遺伝決定論寄り" だったのが、この15年の間にきれいに逆転した。
まだ、今ほど環境要因による宿命が世の中で問われてなかった中で、「人やその才能は環境がつくる部分が大半だと思う」と主張していたBくんの思索プロセスをもっと詳しく聞いとくんやった、と思ったり。

 

その後戸目子のパリ行きが決まってきたころ、Bくんとの関係は唐突に終わった。
この貴重でスペシャルな男友達(日本人の!)だったBくんは、最終的に恋愛感情を絡ませて友人関係を台無しにした。というより、それに逆ギレ対応して関係を台無しにしたのは戸目子かもだけど。こういうの、どちらの側も教育で防げ得るものだと思う。今でこそ重要視されている「同意」問題とか、小さい頃から教えてほしかった。同意する・しない意思を、誰も不必要に傷つかずに伝え合える世界なら本当に楽。戸目子は今でも苦手。

当時、(ついぞネット上に載せることなく)書いていた日記ブログの存在を気にかけてくれていたBくん。
もしいつかこれを読んでくれることがあったら、また違うかたちで戸目子の想いが伝わるだろうか。

 

 

 



 

その日メモ :

夏休みの終わりにメモってたやつ↓

 

昨夜、海賊船を作りたい!と突然言い出した娘と、それで俄然モチベ上がった夫が、二人でググって見つけたらしいこちらの作品👇

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一目惚れしたもよう。
小一時間で作れるって書いてるし⤴️とウキウキ段ボールなどを用意する二人。

 


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スクロール。
これ見ながらだいたいの形に切っていく。
(娘だんだん遠のく)

 


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組み立てたらこのようになる予定。
けっこう大がかりな作業に頑張って取り組む夫。(もう娘不在)

 

 

 


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「できたよ!!」(娘戻る)

 

 

 


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なんやそのサイズ感!!(父の叫び)
最後の完成写真見てなかったせいで、2時間かかってた。