戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

オリパラでデトックス

 

本日オリンピック開会式。
ここ最近で、関係者が立て続けに辞退したり解任されたりしたが、戸目子は五輪そのものの辞退をまだ期待しています。

障がい者虐待の小山田氏のことは今回初めて知ったが、絵本作家(と呼ぶだけで虫唾が走るけど)のぶみ氏に関してはずーーっとキッショと思ってましたので、本人がヤバミと思ったのか早々に引き上げたのは良かったが、そもそもどういう人選基準だったのか不思議でならない。
なんでその人??

小林賢太郎氏の「ユダヤ人大虐殺ごっこ」に関しては、珍しくやけに迅速な対処だったけど、オリパラのお偉いさんにユダヤ人いるからとかかな?
どちらにしろ、これはただ(文脈問題を差し引いても)日本のお笑い界の狭さ・無知さが時間差で晒した恥で、こういう類のものはいくらでもあって、オリンピックなど "外の目" さえ関わってなければ野放しだし。

 

小山田氏の周辺に関しては、半年前、性差別発言で辞任に追い込まれた森喜朗氏の時と同じく、止まぬ抗議にも最後まで一丸となって抵抗し続けていたが、海外(主に欧米のニュース)で大々的に報じられるという "外圧" に耐えきれずに散った模様。
(森氏アゲアゲ一派はまだ諦めがつかぬ模様だけど)

日本は、粘り強く変わらないことがむっちゃ得意なんだけど、外圧によってあっけなく変化してきたという部分も大きいので、これからもその方向でどんどん進んでほしいと思う。
表面的に変わっても意味ない、という向きもあるだろうけど、表面からでも変わらないよりいい。

でも、東京五輪で『多様性と調和』を基本コンセプトとするのは無理難題。それこそ、これらの言葉を「表面的に」掲げることになってしまう。

 

と、そんな一連の騒ぎの中、神々しく一本の光のように現れた、とある方のnote記事。
「被害者は我が子だったかもしれない」と障がい者を子にもつ白岩佳子さんがしたためた愛の文章に、戸目子は涙が止まらなかった。

 

※白岩さんはシングルマザーで介護福祉士をしており、ほか多くの方と同じくコロナ禍で打撃を受け、生活保護を申請せざるを得なくなったと語っています。
この文章を読むだけでも十分ですが、もし余裕のある方は支援をされるといいかもしれません。(記事下のサポートボタンから課金可能)

 

ここまで全てダメダメできてしまったオリンピックが、図らずも、性別・障がい・子供・民族という、力関係における弱者側への無理解や踏み付け例をあぶり出し、浄化作用みたいに働いた点は良かったと思う。

 



 

その日メモ :

戸目子と夫はだいたい2ヶ月に1〜2回くらいのペースで順調に喧嘩している。
戸目子はいつも、〈言いたい事を言う→ダンマリ攻撃〉というタチの悪さで挑むが、今回は〈言いたい事を言う→メールする〉という初の試みを。
これハマる。

今回の喧嘩の発端も、いつもと同じく、書くに忍びないほどどうでもいい。
でもメールでしっかりと要点をまとめ、相手の反応を待つ→返事を読む というプロセスが、やけに気に入ってしまったので、喧嘩の対処に行き詰まっているカップルたちにお勧めしたい!

書くことは、その場で衝動的に罵り合うのと違って冷静さと論理性が加わる、かつお互いのペースで内容を消化できる、という点でもちろん素晴らしいのだが──

それより、夫のメールに萌える。

いつもぺちゃくちゃ喋り合っているので、サウンドを介した彼ばかりインプットしてるわけだが、文字におこされた夫、といいますか、彼の別の顔を見る戸目子の心はもう初恋に近い。

それに、日常生活とは別にメールを送り合っているというのが、なんか秘められた関係みたいで◎

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よく見たら、ごくふつうの口論メール。タイポも多い。
彼からメールが届いてる!という瞬間も萌え〜

(夫には未許可で掲載)



 

 

 

一人っ子の Pros & Cons

 

最近、6歳娘と自分の足の長さがそう変わらないことに気づいた戸目子です。

 

昔から、一人っ子というのは何かとウルさく言われるイメージがありますが──

わがままで自分本位で常識がない(全部戸目子だよ)とか思われがちで、どこか性格や言動に問題を見つけるたびに、一人っ子であることと結びつけて批判されたり。
戸目子が高校生のときは、とある教師が、
「一人っ子は、一人っ子であるというだけで病気なんです。」と、一人っ子の多かったその学校の授業中に豪語していたのも、今だに引っかかっています。
彼はその後3人の子宝に恵まれていたので、自説を覆しうる経験をしないまま、まあ幸せにやっているのだと思います。

一方、今までのところ楽しく一人娘を育てている親の一人として、これまで感じてきた〈一人っ子の Pros & Cons(メリット・デメリット)〜戸目子家の場合〉をここに記しておこうと思います。

 

【Pros】

①静寂の中で数時間集中できる

メリットはなんといってもコレです。
娘は(特定的な)集中力がハンパなく、ほぼ毎日1~2時間、休日などは放っておけば4~5時間机に向かってひたすら漫画らしきものを描き続けています。あまりに静かで、親はたまに彼女の存在を忘れてしまうほど。
その間は夫婦二人の時間を持てたり、それぞれ一人の時間を満喫できるのだけど、その時の「静寂」がなんとも良きです。(普段の声量が3人ともすごいので)

この「静寂」は、子供が一人増えるたびに激減するんじゃないか、そしたら娘の集中はここまで長く続かないのではないか、と推測します。

 

②ベビーでいさせられる

子供が二人以上だと、上の子は下の子より大きいので、必然的に「あなたはもう大きいんだから..」という気持ちで接してしまうことが多くなる気がします。長子としてはたまったもんじゃない理屈です。

その点一人っ子は、いつまでたってもベビー!
うちのベイビーは23kgの今でも毎日気がすむまでだっこされて、誰のお手本になるでもない気楽さを享受していると思います。
是非は別として、この点では親も子もストレスフリー。

 

③孤独に強くなる傾向?

これは個人差も大きいと思いますが。
なんとなく、大家族で育った人は大人になっても大家族や大人数を望む傾向にあるように思います。
対して、一人っ子育ちをはじめ、自分自身や静寂さと向き合うことが多い環境は、"一人の強さ" を育みやすいと思います。
そして、ワイワイ大家族が好きな人が孤独になった場合よりも、孤独OKな人が大所帯になった場合のほうがストレス値は低い気がするので、どちらに転んでもいい「孤独OKタイプ」の方がオトクかな、と推測。

 

④存分に投資

これは言わずもがな。
うちの場合、英語圏に住まない限り学校にお金がかかり続けるため、一人分と二人分では将来的にかなりの差が出ます。
(是非は別として)身の回りのものやオモチャや教育などに、マイルールの範囲で躊躇なく出資できるのが嬉しい。

⑤親主導の動きやすさ

これも大きなメリットです。
どこに行くにも躊躇なく、パッと出られる自由さは手放し難い。
大人2に対して子供1だと、主導権が親側にある "気" がしますが、大人2子供2となると、それが一気に子供側に傾く "気" がして、自由さが薄れる気がします。
つまり、子供が親側に合わせるか、親が子供側に合わせるかの比率が、人生を通してかなり変わってくるように思います。

また、コロナ前は、国をまたぐ引越しや旅で移動だらけだったので、一人っ子は本当に楽でした。
定住生活か移動生活か、といった生活スタイルと家族構成は戸目子の中で強く関係するので、もし「ずっと同じ地域に住む人生」だった場合、あまり迷わず二人目を持ったと思います。

てことで、今のコロナ自粛生活が二人目欲を呼び寄せてる部分は大きい!(今気づいた)

 

⑥忍耐力に欠ける親でも、一人ならなんとか頑張れる

キャパが米粒大の戸目子は一度にふたつ以上のストレスに対処できないので、複数の子供がガチャガチャの状態でどれだけ正気を保てるか自信がありません。
でも一人だったから、難しいタイプの娘でもこれまでじっくり向き合うことができました。
また、「せめて3歳までは、何があっても怒らない・叱らない」と決めてましたが、それを丸4年間達成できたのも一人だったからだと思っています。(危険なことをしないタイプの子だったのも大きいけど)
赤ちゃん〜幼児期の、愛くるしい一挙一動を堪能できたのはもちろん、イヤイヤ期のカオスも色々と踏ん張れたのは、けっこうな達成感をもたらしてくれました。

 

⑦親密感

先日、両親と10歳くらいの子が公園でバドミントンをしている風景を眺めていて、あ〜なんかいーなぁ...♡と思いながら(ガン)見てました。(一人っ子か知らんけど)
なんというか、そこにもう一人子供がいたらそれはそれでまたいいのだけど、やっぱり一人っ子家庭独特の「密」な空気感ってある気がします。
子供が成人してからの親子の絆も強いイメージ。(ただのイメージ。)

 

⑧エコ

日本の外から、事あるごとにリマインドされるこの問題。

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"子供は可愛いが、エコ・フレンドリーではない"

CO2排出量でいえば、"子供を一人持たない" は "車をひとつ持たない" の約25倍(58.6トン)毎年削減できる。
とくにうちは飛行機(それも国際線)をよく使うファミリーという、それだけでかなり地球に良くないことをしている意識があるので、この問題は大きな歯止めとなっています。

 

【Cons】

①プレッシャー

デメリット第一位はこれじゃないでしょうか。
どんなに親が「プレッシャーにならないよう」気をかけて育てようが、子供からしたら、子供一人という構図がすでにプレッシャー。
親がよっっぽど子供に興味がないか、よっっぽど子供が鈍感かでなければ、避けては通れない「親のエゴ」問題。それを一身に背負う一人っ子たち。

 

②愛情ダブル!の経験ができない

二人目を欲するときの理由のひとつが、
「これほどまでに愛しい生き物が、もうひとつ存在しうるのか?!」という興味。
一人にかける愛情を100としたら、二人いると200になるっていうじゃあないですか。考えただけでもゾクゾクしますが、その経験ができないのは少し残念に思います。

 

③多様性の欠如

子供が増えると家庭内での多様性が広がります。
同じ親から生まれても一人ひとり別人なので、たっっった2つ3つのデータでも、子供というのはこれほどに違うものなのかというのがわかって日々勉強になると思います。
偶然二人とも同じタイプだったとしても、その家庭のキャラが濃くなるという意味で面白いだろうし。(戸目子の友達に、3人産んで3人とも仏のような子ばかりの所があるが、あそこは何人産んでも仏が増えるだけだと思う。)

 

③きょうだいという関係性がない

娘を見ていると、友達・イトコ・近所の子・親の友人の子など、相手が同じキッズでも、関係性が異なると関わり合い方が少しずつ違っています。
例えば、娘がイトコたちといるときの雰囲気は、友達といるのと少し違うし、親近感も5割増し。
てことは、きょうだいがいれば、きょうだい独自の関係性を構築するんだろうなと。
関係性に多様さがあればあるほど自己表現の幅が広がるのはいいなあと思います。

また、下の子に好かれる・頼られることで責任感や自信が育つ、というのも大きい。

 

④社会性を育む機会の欠如

これは完全に「人による」案件ですが。
娘は、同じ年頃の子たちとうまく遊んだりつき合ったりが苦手です。
友達の輪に入れず(というか興味を示さず)ポツンと一人で遊ぶ娘を見て、頼もしくもあり少し心配でもあり、なかなか複雑です。

そんなタイプだから、尚更きょうだいを作ってあげたいなと思うこともあるけど、歳が7つ以上も離れるしなぁ、、

でも、幼少期に毎日一緒に過ごすきょうだい間で育まれる「社会性」というのはある気がします。
まず、家に子供一人だと、誰かと「喧嘩する」という経験が圧倒的に不足するし。(まあ、きょうだい同士でも年齢差ゆえにパワハラみたいな喧嘩になってしまうと害の方が大きいだろうけど)

 

⑤晩年の孤独感

これは時代遅れの考えかもしれませんが。てか時代遅れの考えであってほしい!
これからの時代、家族だからって必然的に強い絆で結ばれるワケでもなかろうし。
でも、親の問題や親の死を一人で受け止めさせることや、親の死後一人にさせるのは申し訳ないという思いは少なからずあります。(娘が家族を作っていたとしても)

ここは、古き良き家族の絆より、自分で選んだ人たち同士とのたくさんの絆で、孤立することなく晩年を謳歌する未来の人間世界に期待!!

 

 

これとは別に「二人っ子」の場合も、いい所悪い所たくさんあると思うので、掘り下げて聞いてみたいです。
これから数ヶ月ほど、周りの人たちにはそんな質問ばかりする所存です。

 

と、ひとしきり考えていた先日、ふと娘に「妹か弟ほしい?」と聞いてみたら "NO." と即答されて終わりました。

 

 

 

 

 

その日メモ :

娘の学校は六月末から早くも夏休み入り。
なので七月末まで1か月ほど、近くの公立小学校に臨時的に通わせてみることにした。

初日は心配だったため(というより興味で)戸目子は教室の後ろで4時間ほど見学させてもらいました。 が。

ポッと現れた戸目子親子を大歓迎してくれ、娘に対してもかなり気を遣ってくれている手前、言いづらい部分はあるのだけど──

もう色んな意味で衝撃だった。

今日、同じ地域の友達親子数組と会ってきました。
でも他の親御さんたちに(我が子はずっと通うわけではない身で)学校のことをdisりまくるのは失礼やし感じ悪いし不快やろし無責任なので、きちんとオブラートにくるんで緩~くdisろう!と固く決心したはずが。
自分もびっくりの剣幕で怒り狂ったよ。💢

出るわ出るわ数々の理不尽エピソードはじめ、同じ地域のとある小学校に通う子によると、授業中はトイレに行けない決まりだという。
それ、人権侵害だよ?
敏感なその子は、それがプレッシャーで極度の頻尿になってしまってる。(心因性と診断)

 

戸目子の小学校時代から30年ほど経ってるし、色々と変わってるんだろうなぁ!と心躍らせて行ってみたら、まさかのムショやん......
これ、参観日とかじゃなくて、こうして普通の日をずっと見学してみないとわからなかったと思う。
あと、子供はミラクルに順応性があるから、子供が不満を言わないからって安心とは限らない。

そうか..
"教育=支配" という構図が、未だこんなにスタンダードとして健在だったのか、と強く落胆しました。
威圧的に、理不尽に押さえつけられたり、むっちゃすごいことしたり言ったりしてるのにスルーされまくる子供たちを見るたびに、いたたまれない気持ちになりました。
こうやって小学一年生をガチガチに厳しく躾ける目的は、大人(権力者) が管理しやすい生徒(国民) に育てるためなんだろうな。そして、そのこと自体を個々の先生方は認識してないとみた。知らずにやってる。

 

でもこういう問題って、どう対処したらいいんだ?!

とりあえず家庭内で、できる限り「先生や親の言うこと・することが必ずしも正しいわけではない/完全ではない」ことを繰り返し教え込むのと、「何か不快な思いをしたときは必ず知らせてほしい」と伝えることかな... 

とりあえず、子供たちの多様さと面白さ、アメージングさに乾杯🍺

 

 

 

 

 

 

無敵のJくんとピアノ、才能について

 

前回のエントリに繋がる話だけど、長いです。

戸目子の娘の前の幼稚園の同級生のお兄ちゃんのJくん
の話。

 

現在小学3年生。
誰一人として音楽に縁がないし、音楽のオの字もわからないという家庭に生まれたJくんは、幼稚園に入ってすぐピアノに反応し、先生たちの弾く姿を見ているうちに少しずつ上達し、気がつけばいろんな曲を弾けるようになっていたらしい。
親御さんはJくんにアップライトピアノを買い与え、とりあえずと幼稚園専属のピアノの先生に通わせ始め、今も同じ先生に通い続けている。


戸目子が会って初めて演奏を聴いたのは、Jくんが年長のときでした。
けっこう複雑な幼稚園の園歌をはじめ、今習ってる曲やらを、ちょっと緊張しながらサラサラ弾いてくれました。
その頃(なぜか)先生に「ペダルはまだ早い」と言われ教わってないというのに、完璧に音楽と調和した自然な足の動き。

゚ ゚ ( Д  )  ←戸目子


すごーい!!と驚愕しました。本格的な教育を受けてるならまだしも、なぜどうして?!?

明らかに内発的ななにかを持っていて、でもまだ幼い子供だから自分も周りもわけがわからんです、という状態に見えました。

何かがすんごい奮い立った戸目子は、すぐに、自分が同じ頃に気に入って弾いていたブルグミュラーの楽譜をあげてみた。(弾けと。)

そしたらなんと楽譜がまったく読めんという。

でも次に会うと、その中から気に入った曲をパラパラ弾いている。楽譜の読めないJくんに、お母さんがそのCDを買って聞かせ、それを耳コピで練習したという。🙊
他にも、クラシックに限らず好きな曲を楽しく弾いていて、戸目子が同じ曲をちょろちょろ弾くととても喜んでくれた。

一年生になってショパンが好きになったという頃には、幻想即興曲とかを遊び弾きしていた。(でもさすがに左手6音・右手8音の仕組みを完全には把握しきれておらず、彼の耳が人間メイドであることがわかって少し安堵。アップテンポでペダルの多い曲は耳コピにも限界がある。)

 

その後コロナでしばらく会わなくなり、なんだかんだしているうちに、なんともうすぐ引っ越してしまうというではないか。

(´༎ຶོρ༎ຶོ`)  

先日久しぶりに会ったJくんは、子犬のワルツなどを相変わらず耳コピで弾いていた。
以前より更に指もしっかりしてきて、音もきれい。

でいつになったら楽譜読むんだろ..?

 

聞くと、Jくんのピアノの先生は相変わらず指の動かし方などを教えているという。

戸目子はレッスンに同席したことないので何もハッキリとは言えないけど、でもそれって、幼いウサイン・ボルトにひたすら上手な歩き方を教えるようなものでは? あるいは、幼い与謝野晶子にきれいなひらがなの書き方ばかり教えてるようなものだ。(ハッキリ)

Jくんのような子は、テクニックは教わるものではなく、必要に応じて自然にどんどん身につけていくはず。
今の彼には、音楽性の面と知識の面で「できるだけ多くの選択肢」を目の前に提示して、彼のワクワクポイントの幅を広げてあげることが一番大事なサポートだと思う。

幼くしてこれだけピアノが好きで、好きが高じて耳がひたすら肥え続け、一人ででもどんどん学習してきたその蓄積は一生の宝だろうし、これからも勝手にコツコツ探求していくんだろう。
プロを目指すかどうかは別として、そんなJくんの将来を見越し、なにが彼のためになるかと考えたとき「楽譜を読む力」などは最優先事項のひとつだと思う。バリバリと活躍するピアニストでさえ、初見力(初めての譜を見ながら弾ける力)のなさを嘆く人は少なくない。初見力というのは、問答無用で "ある" に越したことはなく、それは子供の頃にこなした譜読み量がダイレクトに影響する。(ちなみに戸目子も耳コピに頼りがちだったので、今でも初見は苦手。)
Jくんにとって譜読みのトレーニングは、単にピアノを弾くことほど楽しくはないかもしれない。でもだからこそ、レッスン時間という限定的かつ拘束力のある空間は、それを効率良く学べるチャンスだと思うのだけど。



これまで、戸目子が教えられたらなあ、と思うことも何度もありました。
でも、Jくんの弟と戸目子の娘は同級生であり、Jママと戸目子はママ友という初めから出来上がった関係性で、かつ戸目子の異常な怠惰さ(←これ)が重なって、どうしてもうまく関係性を切り替えられる気がせず、たまにちまちまと助言をするにとどめてきた。
それでさえ、どこまでしゃしゃり出ていいのか、どこからが余計なお節介なのかとか雑念が交錯して、毎回(あ〜もったいない!)と思いながら、自分がなんの力にもなれないことを歯がゆく思ってきました。

 

 

"才能" の正体

「もったいない」という言葉はよく聞くけれど──。
たぶん、多くの人が大変な努力をして得るようなことを、自然に、葛藤なくできてしまうことを才能と呼ぶんだろう。
ただの一面的な "個人差" かもしれないし、そのレア度が高ければ「傑出した才能」といわれる。
世にいう才能は、他者との比較の中におけるただの指標ともいえる。
だって例えば、子供がわずか3年とかで母国語を流暢に話すのって、よう考えたらものすごい高度なことをしてるわけだけど「この子には語学の才能がある!」とはならない。大多数の子供が自然にできるから。
それと同じように、「できる人」からしたら、どんなに周りが「もったいない」と叫んでも、本人にとってはそれが普通のことなんだから余計なお世話だったりする。

 

また、 "才能" というのが、生まれ持ったものだけでなく、自分次第であとからいくらでも構築できるものでもあると提言するような大人はかなり少ないように思う。「努力は裏切らない」とか根性論とかで、若いエネルギーを無駄に消費させる大人はたくさんいるけど。

生まれ持った "才能" に恵まれた者は特別で、それを活かすのが務めだ、というのが、戸目子にはとてつもなく「つまらなく」思えたけど、社会や教育のシステムがそういう作りになっているし、大人たちが口を揃えて言うんだからそうなんだろうと思っていた。
でも当然ながら、そんなものは人間社会が作り上げた「幻想」に過ぎなかった。人間って、才能とか生まれとか天才とか、絶対的な権威が好きすぎるんですね。

今なら、生まれ持たなかった "才能" を構築することだって大いに可能だ、と断言できる。
それを成し遂げた人たちを見ていると、これこそが子供たちに伝えたい「生きる希望」だよなぁと、しみじみ思います。

 

 

話が脱線しましたが。
それでも、Jくんのように、"無我夢中になってしまうもの" と "レア度の高い才能" が偶然にも一致したとき、人は無敵だと思います。
でも皮肉なことに、今の世の中には、そういう人たちが一般社会で目いっぱい「わがままに」生きていける仕組みがあまり用意されていません。「自己責任万歳」の日本社会なんて特に。

そんな中で、その子自身がある程度 "鈍感" で、周りを気にせずにのびのびとやれるなら良いけれど、「自分が人と違う」ことが引き金になって、いったん自分の存在をネガティブに捉えだしてしまったら、歯止めがきかなくなる部分があるように思います。

Jくんもまた、「なんかよくわからないけど、ここじゃない」という、自分がうまく属せないこの社会に押し込められて、苦しい思いをしているんだろうと思う。
エラ呼吸が得意なのに、陸に住んでるような。

 

 

戸目子も、教育者目線で見たとき、Jくんのようなレアな人物を前にすると少々おののいてしまう。

どうしよう、この子、並外れた才能持ってるだけじゃなく、すんごいピアノが好きじゃん。こんな人物、歴史上にデータが少なすぎて(あっても皆アウトライアーだから参考にならん)どうしたらいいかわからんじゃん!

わからんけど、とにかくクラシック道のスタンダード的にちゃんと導かれてないかんじだけはわかる。。
...でも、逆にそういう道を歩まない方が良いんじゃないか? 彼をレッドオーシャン(スタンダードな競争社会)に放り込むことで、彼のユニークさやパッションを削いでしまうんではないか? でも高いレベルの同志たちがいればそれが良い刺激になるかもしれんし── どちらにしろ、とにかく楽譜は読めてほしいような... 

と、戸目子はJくんに会うたびひとしきり一人で思い悩んでは、 スッタカ逃げて終わってきた。

 

でもJくんは引っ越してしまう。
だからこの機会を利用して、余裕ができたときに十人でも百人でも、新しい地で一人でも多くの先生にお試しでレッスンを受けてみてはどうかと提案しておきました。
数打てば、もしかしたら良い出会いがあるかもしれない。使えるものは使い倒す、という心意気で!(ここが遠慮がちなファミリーなのです)

 

 

個人的な願い

戸目子から見て、Jくんには特に恵まれているものが3つあります。

ひとつは彼のパーソナリティ。
かなりナイスな性格で、接する誰もが心穏やかになるオーラを持っている少年。(うちの夫まで癒されてます)
音楽だけじゃなく、色んな物事に興味関心を持っていて、話していてかなり楽しいのです。戸目子の与太話にも優しく耳を傾けてくれるし。
そして、なんか大量のアルミホイルをガチガチに固めたやつを磨き上げて肌身離さず持ち歩いてたり、家にあるもの(ゴミ)で予期せぬ物体を作り上げてたり、ブラックホールの虜になってたり、こないだは宇宙のあれこれについて話そうと楽しみにして会ったら今はダチョウに夢中らしいし。(この国には、ダチョウ王国というものがあってダチョウが見放題らしく、ダチョウファンには堪らんらしい。)

ふたつめはご両親。
音楽のことが全然わからないと悩みながらも、なんだかんだJくんがのびのびとピアノを楽しめる環境を整えてなさる。
親が音楽にやたら詳しかったり、クラシック界に特別な想い入れを持ってたりすると理想ばかり高くなり、子供は息苦しい。
現時点での実力面ではそういったスパルタっ子には敵わずとも、最も貴重な「ピアノが大好き」を失わないでいられるのは、このご両親の在り方が大きく影響していると思っています。

みっつめは彼が男の子であること。
これは大きな特権です。本人さえやる気を見せれば、周りの人たちだけでなく、システム全体がバックアップしてくれる。もちろん例外は色々あるけど、少なくとも今の社会はそうできています。
だから遠慮せず、使えるものは使い倒すという勢いで羽ばたいてほしい。
本格的にやるでも趣味を極めるにしても、Jくんにとってピアノが、彼の人生において大きな大きな支えになること間違いなしだから。。

 

 

 

 

 

その日メモ :

戸目子渾身の力作を書いたあとになんだけど、
夫が、日に日に「昔読んだ漫画の一コマの顔」に似てきてて、どうしてもそのコマをもう一度見たくなった。

'94年頃のもので廃盤らしく、先日ヤフオクで見つけてとうとう入手した!

 

その名も『スーパーマリオ 4コマ漫画王国6』

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まさにこれ↑

 

30年ぶりにまた読めるとは!
そして長年記憶にこびりついていたこのマリオが、未来の配偶者の姿であったとは...!

色々と感慨深い。

 

 

 

 

 

 

「答え」をもった人の演奏

 

日本での音大時代、同じ門下の先輩で、むちゃくちゃインスパイアリングな演奏をする人がいました。

彼女はよく「わたしは才能もテクニックもなくて」と言っていて、実際に指はよく回ってなかったんだけど、戸目子は彼女の演奏を聴くがために演奏会やら門下の弾き合い会に参加していたと言ってもいいくらい、その演奏を楽しみにしていました。

 

いつも「自分は下手くそ」と堂々と表明していた彼女は、親子揃って大の音楽ファンでした。
どういう経緯かけっこう人脈もあり、たまに小規模な演奏会の企画や開催も手がけていて、戸目子を何度か演奏に呼んでくれたりしました。
演奏するたびに必ず論評をくれるのだけど、それがけっこう的を得たものや意表を突くものが多く、彼女のどこか教祖様のような見た目も相まって「この人やっぱり変」と妙に怪しむ戸目子でした。
彼女がどんな生き方をしてきたのか知らないけれど、とりあえず「人の演奏を聴く力」もずば抜けていました。

他人の演奏からこれだけのものが見えているのに、自分の演奏に満足できないってのはさぞかし大きなフラストレーションじゃないかなと思っていたけど、本人はそこに関してはけっこうあっけらかんとしていて、それもまたミステリーだった。
ひとつ心残りなのは、彼女の演奏で得た感動を本人に伝えきれずに時が経ってしまったこと。

 

彼女が卒業してから先は連絡が途絶えたけど、たまに思い出しては、どこかで演奏家とか音楽評論家として活躍していてほしいなぁと願わずにいられません。

 

 

一口にインスパイアリングな演奏といっても様々だけど、彼女のそれは、聴いてるこちらにアイディアが噴水のように沸き上がってくるやつでした。
実際に音として伝わってこなくても、「あなたはこう弾こうとしてるのか!」「わかる、おぉ~わかるよォ!!」という感動、といえば伝わるだろうか。
それは、こう弾くといいよと教えられて出来たようなものではなく、誰に言われようが言われまいが漏れ出てくる感性のようなものだ。

だから、当時の戸目子の選曲は人知れず彼女のレパトアを追っていました。 Ψ(`∀´)Ψケケ
それくらい、聴くたびにその曲の真髄とか触れたことのない感性とかを体験させてくれるような演奏だったのです。

 

能力やテクニックのすごい演奏家はゴマンと存在するけど、これほど豊かな「中身」を、聴く側にふんだんにお裾分けしてくれるような演奏家はかなりレアです。
縦横無尽に聴衆を圧倒するようなアーティストと同じくらい、彼女のような「一見すると見えない(聴こえない)」けれど、その奥に存在する豊かな音楽性で人をインスパイアするようなアーティストが、もっともっと評価される世の中であってほしいと思う。

ものの価値というのはもっと多様であるはずで、権威づけのために定義されたような才能に特権を与えすぎている風潮に、ストップをかけるべきだと思います。

 

 

日本の音大時代、周りには「優等生」がたくさんいました。
優等生、すなわち「正解を求め努力に励む人」。

常に、なにが正解なのかを外に求めて模索する。
指導の中にそれを見つけながら、自分の演奏を形作っていく。
本質がよくわからなくても、とりあえず「一音入魂」と受験勉強のように頑張ってみる。それでも土台がある人はそれなりの完成度になるし、高評価される。
上に従うことが基本スタンスである日本では、ついた先生が生徒の音楽的成長の大部分を左右してしまう。

そういった優等生モデルは、裏を返せば「自分の中に答え(意味)を見出せない」ということかもしれない。

音楽に限らないけど、自分のやっていることで、もしも自分の中から湧き上がり続ける「意味」なるものが見出せないなら、一生周りに「答え」を求めて生きることになるよ。
それは真面目で着実な生き方だけど、それだけではけっこうしんどいと思うよ。

その先輩の音楽は、当時の戸目子の感性と相まって、そんなことを語りかけてくるようでした。

 

 

 

 

 

その日メモ :

本日、一人カフェ解禁。
といってもまだ緊急事態宣言下。ただの自己決定。

日本人の中にも一部、ワクチンを受けにちらほらアメリカに渡っているとか。
現地ではそこらのドラッグストアとかで接種をやっていて、フラッといってポンと打ってもらえるらしい。羨ましい。

 

1か月前、第4波の到来でカフェが怖くなった戸目子は、なんとか家(ベッド)に帰らずに半日を過ごせないだろうかとじっくり思案した末、こちらを購入。↓

 

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屋根付きアウトドアチェア!

コレを持って、色んな公園で半日を過ごす算段をつけた。
気が向けばエクササイズもできて、犬も見れるし夫も来れるし、完璧。


しばしのお供にはこの2冊↓
それぞれ邦訳版・英語版を購入。
夫婦で同じ本を同時進行で読むというファビュラスな計画。

『三つ編み』舞台はインド・イタリア・カナダ。

 

ずっと読みたかった『パチンコ』ついに。
表紙も美しい!



とここまで準備したのに、まだ一度も実行されず。

 

ちなみにこのチェア、収納時でも長さが1mあるため、自転車に積むのが大変。

現在、家で猫が使ってる。

 

 

 

 

 

 

ただの日記 5月10日(月)

 

遅くても9:20AMには家を出ないといけないけど、
今日も9:00に目覚める。

トイレに行ってから、娘を起こそうとベッドに戻ると
「マミーと同時に目覚めたかった」という理由でブチギレられる。

娘が泣き叫び始めると、いつも無の境地 ( ꒪⌓꒪) になる戸目子。(内心ではけっこ共感してるが)
狂い泣く娘は、自動的に夫の手に委ねられる。

鮭一色弁当をスピーディーに用意。
頭上で手を組んでソファに寝そべり、ダディに靴下を履かせられる娘を、どこの王様かと笑いながら戸目子お着替え。

ギリで間に合った出発時、ドアを長く開けていたら愛猫がどっか散策に出かけてしまう。

自転車でスクールに向かう途中、マスクを忘れたことに気づいた娘に「マスクを忘れたからくださいって先生に言うんよ」と告げてから、せっかく軽やかになってた娘の機嫌が再び怪しくなる。

到着して、珍しく「行きたくない、マミーとダディといたい」とぐずる娘を、なんとかハッパかけてバイバイする。
娘の大好きな "スパイダーマン : スパイダーバース" を観て以来、 "I love you." "I love you too." の掛け合いを欠かさず送り出しているが、今日は返事なし。

 

 

戸目子が帰った音を聞きつけたのか、
ドア前に戻ってきた愛猫を夫が招き入れる。

ごはん(ドーナツとハンバーグと納豆ご飯)を食べながら、開業医という職業の絶望的な側面について、開業医業にまったく縁のない二人で熱く語り合う。

フランスに住む友人から、オンラインで落語の勉強をしているという息子さん(5歳)の、オチのない落語の動画が送られてくる。
甚平着て正座。ちゃんと扇子使って表現してるし、話し方も落語っぽいし、なにより彼の日本語の流暢さにビビる。

 

クローゼットの役割も果たす我が家のバルコニー。
ときには雨や雪をも凌ぎ、濡れては乾きを繰り返しながら、少しずつ減ってゆく洗濯物たち。
でも、夏は、太陽の光で服の色味が落ちるので、大事な服だけは1日で取りこむ。
28°まで気温が上がった今日、今年初めて服を一枚取りこみながら、夏の気配を感じる。

よし!今日は天気も良いし(数週間ずっと延期中の)衣替え作業をやる、と意気込んで、ちょっとその前にソファで「自分でお尻を拭ける 何歳から」と検索して調べてるうちに寝落ちする。
しばらく睡眠不足だったため2時間ぐっすり寝てしまい、起きたらお迎えに行く時間。

 

 

急いで向かう途中、Sちゃん親子に遭遇。
もう1ヶ月以上会ってないけど、お互い自転車を止めて話し込むほどの久しぶり感でもないので、会えた驚きを一瞬で確認し合いながら、かつてのようにすれ違う。
こうやって毎日のようにママたちと自転車ですれ違う3年間の幼稚園生活だったから、たまにこうして誰かと遭遇すると心温まる。
そして、毎回自分の出す裏声に引く。

予期せぬ相手とのすれ違いざまの挨拶というのは、瞬発力を要する。
「わあ!久しぶり、元気?会えて嬉しい❣️またね!」という要素全てを、3秒間の「あああー!!」で表現しようとするがために、謎のテンションになる。
戸目子の地声は低いから、素でいくとかなりドスが効いてしまう。
いつも、このナチュラルなドス声かハイテンションな裏声かの二択で迷うが、だいたい後者を選んでしまっては自分に引いている。
※また、親密な間柄になるほど地のドス声を選ぶ傾向がある。(誰得情報)

 

いつものようにルンルンと嬉しそうに出てくる娘。
今日もとても楽しかったと言うが、このスクールの好きじゃない事柄が3つあるという。
まず、今日渡された Squishy Chicken という変なぬいぐるみは、ベイビー用だから自分にふさわしくないこと。そして、自分はビリでも素晴らしいと思ってるのに、"がんばったねシール" しかもらえないから競争が好きじゃないこと。(大体いつもビリらしい)
ちゃんと順序立てて事を説明してるぅ~(昨日までなかったのに)と感激しながら最後のを待ったが、3つ目はなかった。

屋外授業では担任の先生と二人で話したというから内容を聞いたら、「マミーが犬と二人で暮らしていたら、マミーとダディが恋に落ちた」と話したという。なんとなく合ってる。
なんかダディが犬みたいやね、と二人で笑う。

家に帰った娘は早速「このスクールで好きじゃない三つのこと」などをダディに説明する。

 

 

戸目子と夫はウォーキングがてら、昔の恋人たちとの別れ台詞について話しながら、夫のリハビリ治療へ行く。
病院での待ち時間、周りの人の出入りにだんだんと心配が募る戸目子。
強い感染力をもつという今回の変異株が、東京でどのくらいの被害を出しているのかまだ不明だが。
娘の学校以外、人との接触を最小限にしている戸目子家としては、しばらくリハビリは来ないことにしようと話す。

 

スマホで "Family Guy" の動画を見て二人で笑っていると、集中してiPad見てたはずの娘がどれどれと参入してきて親固まる。
この動画(↓)を気に入って何度も何度も見ようとする娘にストップをかけようとする夫。キレる娘。

 

不適切な表現やワードがある作品は、これまでは可能な限り見せないようにしてきたが、今回のような場合は、見た上でこれは不適切な言葉だよと教えたり話し合う方向に切り替える時期かもしれないね、と話し合う。
でも、初っ端の説明不能な不適切発言は置いといても、ビッチ‼︎ というワードをどう説明していいか考えあぐねている間に、なにも言えず終わる。

 

夫はオクラのスパイス炒めを作り、絶対それを食べないであろう娘に戸目子がパスタを作る。

 

 

 

 

メモ :

なんとなく思い立って日記を書く。特になんもしてない、なんの変哲もない今日という一日の。なかなか楽しい。

 

日記といえば、これまで思い立った時期だけノートに細々と書いてはきたが、毎回続かないし、それらが全然読み返されてないことに最近気づいた。
日記は、読み返すことで価値が出ると思っている戸目子としては、かなりもったいない労力である。

そこで、先月からは、無印のウィークリーノートを使って、週ごとにメモるという形をとることにした。
見開き1週間分で、極力無駄を省いて要点のみ!

 

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曜日丸無視で、ウィークリーノートの意味なし。
でもこういう作りのノートは案外見つからない。

左ページにはその週の「出来事・気づき・思考・買ったもの・行った場所・鑑賞作品」、
右ページは、その週に学んだこと等のメモ。

すでに何度か読み返してるし、今のところかなりイイ感じに活用中。

 

 

 

 

 

 

 

 

スイス、おまえもか

 

先月、スイスでヴェールの着用を禁止する法律が施行された。

別にスイスという国に大した期待はないけど、というよりむしろ、戸目子家が住んでいた街(フランス語圏)では所々に典型的な白人保守社会臭がしていたので、さもありなん、ではあるけど。やはり悲しい。

てかマスクはええのん?

 

スイスで3月7日に実施された国民投票で、公共の場で顔を覆い隠す服装を禁止する法案が賛成51.2%、反対48.8%の僅差で可決された。禁止対象にはムスリム(イスラム教徒)女性が着用するブルカやニカブなども含まれる。

──BBCより引用

 

 

ま、要するにイスラム排除の一環としてなのだけど、ここでいうイスラム教徒のヴェールにはいくつか種類がある。欧米で戸目子がよく見かけるのはヒジャブで、これは顔を隠さないので禁止ではない。

 

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"ルツェルン大学の調査によると、スイスでブルカを着用している女性はほとんどおらず、ニカブを着用している女性は30人程度。同国の人口約860万人のうち約5%がイスラム教徒"

 

一体、スイスはこの約30人の自由を奪ってなにをしようというのか。むしろ、こうした法律ができることで個人レベルのヘイト被害が爆増するわけだが、もしやそれが目的なんか?と疑ってしまう。

 

ヨーロッパにおけるイスラム教徒(ムスリム)のヴェール問題というのは根が深いけど、フランスがとにかくうるさい。ひとつには、フランスの "ライシテ" という「社会における宗教的中立性」が背後にあるが、本来は自由と平等のための手段であったこのライシテが、ここ数十年ではムスリム排除に利用されつつある。

戸目子がパリにいた2011年には、とうとう公の場でのヴェール着用が完全禁止となった。それでも着用する女性をたまーに見かけたが、警官に止められるたび罰金を払いながら貫き通しているのかな。

 

イギリスやフランス、ドイツを筆頭に、ヨーロッパは移民が多い。表立っては9.11のNYテロを機に、その後イスラモフォビア(イスラム嫌悪) は悪化の一途をたどっている。イスラムの文化や慣習の "知識" は圧倒的に不足したまま、「なんとなく怖い」という不安だけが肥大して、なぜか「ヴェールを被るな」(=イスラム色を出すな、受け入れられない、治安に悪そう、共生する気なさそう)とかいった、一方的でかつズレた攻撃にひた走っている。そもそも、彼らはムスリム男性のもじゃ髭にも脅威を感じているのだが、ヒゲは自分らも生やすから禁止できないという。
かくして女性解放において最も先鋭的であったはずのフランスが、ことムスリムに関しては先陣を切って女性差別をしているという皮肉。

 

戸目子も、ムスリム移民やその文化を嫌悪するような発言をするフランス人を何人か見た。彼らは一様に怯えていた。パリがパリでなくなる、おフランスが揺らいじゃう、と。そして、それを堂々と叫ぶのは決まって排外主義的なナショナリストで、「フランスに住みたいならフランスのルールに倣え!」という、自分がたまたまその地に生まれたからってだけで、どっからか湧いてくるらしい誇りと傲慢さでもって他者を抑圧して憚らないのだ。ちなみに、そういう人たちに「"あなたたち" が過去に行った残虐な植民地支配や労働搾取が今の移民問題と直結してることについてはどう考えてるのか」聞きたい。でも、当時の戸目子は「あ〜はいはい、また言うとるわ」くらいの他人事感だった。

それから後シャルリ・エブド事件、欧州での連続テロ、シリア内戦から逃れる大量の難民、英国のブレグジット、そしてトランプの台頭(日本付き)と、世界がどんどんどんどん不穏な方向に。今回の米大統領選ではなんとか最悪を逃れたものの、来年のフランス大統領選では極右国民連合のマリーヌ・ルペンの勝利の可能性が高まっているという。

 

そして、フランス人の一部からそうした発言を聞くことよりも悲しいのは、フランスに住む日本人が無意識にか強者側の差別思想に染まっているのを目にするとき。

「アラブ人が怖い」「(見た目だけで) 理解し合えないと感じる」「自分の子供はアラブ人のいない学校に行かせたい」「移民が治安を悪くしてる」「このイスラムは良くてこのイスラムはだめ」「多文化共生の感覚を持ってなさそう」「存在が脅威になりうるから厳しい規制が必要」etc..

他国で多様性を享受し、自分たちもその多様性の一環である中で、自分とその土地と現地の人を同化させるのは多分にいいことなんだろうけど、スネ夫になったら意味ないじゃん! 奇しくも今(トランプの扇動などを発端に)欧米でアジアンヘイトが少しずつ蔓延ってきている中、強者と一緒になって「イスラム教徒はわきまえるべき」とか名誉白人スピリッツしてる場合じゃないのでは。わきまえようがわきまえまいが差別されてしまう現状が問題なのだ。

 

 

戸目子も怖い思いをしたことが何度かある。それは相手がアラブ人だったりアフリカ系やアジア系だったり白人だったりした。それぞれのシーンはそれぞれ怖かった。でもだからこそ、彼らと彼らの属性(人種や性別など) を切り離して考えなければいけない。感情面で難しいときでも、せめて理性の部分でそこをしっかり理解していなければ、途端に加害側となってしまう自分に気づく。加害者になることの、救いようのない「容易さ」ってのがある。

 

 

 

イギリスではヴェール着用禁止の法律はないが、イスラム嫌いで有名なボリス・ジョンソン氏がヴェールを「郵便ポストみたい」「銀行強盗みたい」と発言して炎上したときの数年前のBBC動画 (↓) が、今回の記事に載っていた。

ちなみに Mr.ビーンで有名なローワン・アトキンソンは、当時この発言を「ナイスジョーク」として擁護した。彼のコメディにおける宗教批判ネタは戸目子も大好きだが、政治家の発言を娯楽と同じ括りで評価するとは、彼もまた、御多分に洩れず典型的な強者視点なんだな、と残念に思う。(郵便ポストは笑えるけどさ・・アンタが国民に言ったらあかんでしょ)

https://www.bbc.com/news/av-embeds/56314173/vpid/p06gzx4d

動画では、4人のムスリム女性がそれぞれヴェールとの付き合い方を語っている。

「誰に強制されたわけでない、アイデンティティであり自分の一部であるヴェールを被ることは自由」

「同化と調和(共生・統合) は別物」

「ヴェールを悪者にして政治利用することが問題」

 

戸目子は特に一番左の人にとても共鳴しました。

「トップ権力をもったミドルクラス(エリート)の白人男性が、その支持者を煽って最も立場の弱い者を攻撃するとは何事ぞ」

「政治や経済の話に口出してるわけでない、社会で活動するマイノリティ女性が自分で選んだ服を着ることと彼に一体なんの関係があんの?」

 

 

 

 

 

 

その日メモ :

コロナで延期された今年のアカデミー賞授賞式。

ここ5〜6年で、映画制作スタッフとアカデミー会員(6000人くらいいる審査員)の人種・性別の割合をガラッと変えた影響をモロに感じる結果が続いている。

世の中、往々にして変化はゆっくりの方がいいというけれど、ここまでドラスティックな変化をたった数年でしてのけるアメリカという国の凄さよ。

 

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フランシス・マクドーマンドの、寝起きと見まごうばかりの自然体もさることながら──

「人が世界で一番のおしゃれをして立つ」はず(主観) のレッドカーペット、今年の映画人たちは全体的にかなりナチュラルだった。それゆえに溢れ出る個性の美しさよ!!!

 

『ミナリ』『ノマドランド』早く観たいわぁ..

 

 

 

 

 

 

その視点、もろた!

 

1ヶ月ほど前、娘に1−1=0 を教えた。

 

そしたら先日、これを書いていた ↓

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1-1=0 と "学習" した後、2-2=1 で 3-3=2 だろうと推測したもの

 

これを見た夫が突然ヒューヒュー興奮し始め、写真を撮ってTwitterに "一発学習の一般化" と題して載せたら、またたく間に(名だたるオタクたちから)何百という想像以上の好反応をもらったようで、「普段ぼくのアイディアには全然反応こないのに」と、良かったんか残念なんかわからないオチとなっていた。

 

 

戸目子なんかは、あきらかに間違った答えを前にすぐさま「2ぃひく2ぃは0やろ?」と指とか使って教えてしまうところだが、「ひとつのデータからパターンを導き出す力、これぞインテリジェンス‼️」と感激している夫を見ながら、こういう発想は貴重やな、と思いを新たにした次第です。

 

 

またある日、ママ友たちに「怖がり屋の娘が、間違えることや失敗することを怖がりすぎるあまり様々な挑戦を放棄し、ゆえに向上心が薄い」ということと、「思い通りにならないときの癇癪がすごい」という娘の2大問題について話していたとき。
例えば家族でかくれんぼをしている時とか(家で子供とかくれんぼしてんの?!とツッコまれ脳みそが一瞬停止)、隠れている娘をすぐ見つけるとすんげー癇癪起こすから、わざと見つからないフリをせねばならん、という話の中で、あるママに「かくれんぼ一つにすごい向上心じゃない!?」と驚かれた。

癇癪を起こすことと向上心を結びつけたことのなかった戸目子は膝を打ってナルホド!!!となった。

 

なんでこんな大変な性格なんや?(戸目子の子だから?)と思い続けること約6年、そこには気がつかんかったわ〜。

ということで、それから娘が様々なシーンで癇癪を起こすたびにその裏に潜む向上心が読み取れて、受け止め方が変わりました。
てか自分もそうだったじゃん!!大人にはことごとく伝わらなかったやつだ。

 

 

こういった発想の転換は、自分一人の力では限界があります。というより、ヒトは自分の限定的な "反応" を日常で繰り返し上塗りすることで、更に視野が狭まっていくというジレンマを抱えている。
その偏った反応/思想/常識を、必要に応じて是正するという意味でも、人(集団)というのは孤立させてはいけないのだなと思います。

 

 

 

 

その日メモ :

今月5日から、片道4km2往復(16km/日)の娘の送り迎えが始まった!
4kmもあると朝から脳が覚醒するのか、そのままカフェなどに居座ってリア充する日々が続いている。

早朝から動くと人生観が変わるってこと、知らんかったん戸目子だけ??!て憤慨するくらいの充実感じゃないか。
「大丈夫。それもあと3日で終わるから」という夫の予測から早2週間。これはちょっとイケる気配!

 

あと、とうとう電動自転車を入手し「これはもはや車やん!」と感動する戸目子家。(無免許の感想)

これならかなりの遠出も気軽にできる、と早速予定を立てながら夢はふくらむ。
これまでしてきた立ち漕ぎの4年間とは。🧐