戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

K.Mさんとの往復書簡【5】結婚観について

 


黒字=K.Mさん 青字=戸目子

 

 

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昔(といってもほんの50年くらい前) は日本人は結婚に愛情なんて必要なかった。でも戦後、 徐々にアメリカナイズされて恋愛結婚至上主義みたいなのになった。友達もみんな、恋愛結婚しか考えられないって感じだったよ。「見合い結婚」なんて、親の言うなりで前近代的。ハッキリ言って「負け」。そんな価値観だったな。 私もそれにはかなりやられたけど、いろいろあって懐疑的です。今は。


恋愛して結婚、っていうのは「ゴールイン」という言葉を使うように、そこから先がないのね。結婚した後の話はないのよ。熱にうなされてるときには、「この人となら何があっても♡」みたいな、先のことを考えるなんて不純!とまで考えることもある。私も恥ずかしながらそんな気分に陥ったこともあった()でも、私は母親が苦労するのを見てきたから、ゴールインした後の女性の物語を知っていたし、それは私にはあまり魅力的には思えなかったのね。だから私のような考え方だったら、結婚しない、 子供を持たないという選択肢は今ならあると思う。でも当時の日本の社会は男も女も結婚して当然、子供を持って当然、という社会でした。

私は働き続けようと思ったけど、そのときに、結婚して子供を持って働くというのは不利だと思うでしょ?そうじゃないんだ。働き続けようと思ったら、結婚して子供を持つ方が断然楽。そうすれば会社の集団がうけいれてくれるからね。この人は、結婚して子供を持つのが当たり前という、その当時の価値観に反旗を翻していない、価値観の違う異分子ではない、ただ、たまたま結婚しちゃっただけだ、みたいに向こうが勝手に認識してくれるからね、優しくしてもらえる。会社の仕事は周りの人がどれだけ協力してくれるか、が成果を出すには不可欠だからね。そのような戦略で私は会社社会で生き延びました。

 

身体を意識したことがない、というのはそれとは別の話。昔というよりも今に通じる感覚ではないだろうか。ヴァーチャルの。たとえばこのメールなんて、全く倉敷と東京の距離差を感じることができない。娘がザンビアにいた時にはLINEで無料電話してた。地球の大きさ、わからないよね。私もね、子供の頃は母親の心理的虐待がひどかったから、現実逃避してたんですな。人間が嫌いだったものね。絵ばっかり描いてて、この絵の中の住人になれたらどれだけ幸せか、と思ってた。

ってことで小さいころから自分の身体のことを意識したりしなかった。んー、それがあったから巻き込まれたような育児の過酷にも耐えることができたのかもしれない、と今思う。

今は身体というか三次元世界の感覚を取り戻すために武術の修業に励んでます。面白いよ!

 

 

 

日本もアメリカナイズされて恋愛至上主義になったとおっしゃいますが、日本の伝統的な結婚観は今でも根強いと感じます。専業主婦の家庭なら、夫は仕事だけに集中して、妻は家事育児全般を賄うというもの。恋愛の行き着いた先というよりはビジネス的なイメージ。あと「夫の一声」が力を持つ家父長制的な価値観もまだ見られます。

それで、ほな女が外で働けばそうでなくなるかといえば、そうではないらしいし。
 
これは個人が結婚に何を求めてるかによるので、夫婦お互いがそれで納得しているのならいいんだろうけど、やはりどちらかというと妻のほうが我慢を強いられていたり、自由に声を上げられないという家庭は多いと感じます。表面上は「先進国」の名に恥じないように女性活躍をうたってはいながら、政権はその真逆のことを企ててますしね。
 
アメリカの、50年代の画一的な家族像から続く60-70年代の崩壊は目まぐるしい速さでしたが、日本はその崩壊ギリギリのところでずっと耐えているふうに見えます。ある意味すごいな、むちゃくちゃ辛抱強いんだなと思うけど、健康に悪そうなのには変わりない。
 

 

 

おっしゃる通り日本の結婚はずばり『ビジネス婚』です。戦後山ほど欧米産のラブストーリーを見せられて、個人の自由意思による恋愛結婚が全て!と思っていても、結婚に落とし込まれた途端『ビジネス』になるのですわ。女が働くようになってもかわりゃあしません。結婚して「家庭を作る」という仕事を成功させる。家庭という型を立派に作る。それが日本人が延々続けてきた社会の姿だったんですね。・・・これは仕事にやりがいなんか感じなくてもとりあえず働いて給料もらえればそれが立派 として会社という組織に属することとも似ていますね。日本人が集団を作るとこういうものになるのでは。エゴとかとは真逆の世界だと思うな。

戸目子さんは結婚に何を求めているの?

 

 

わたしが結婚に求めるものは・・excitementですね。

とにかく面白い人と面白い時間を過ごしたいという夢を持ち続けた結果、今のところ最終的にこの人と相成りました。夫を目にしたら自動的にワクワクする。

なので、結婚にというよりは、彼個人に求めるものというかんじ。

 

わりと不安定な部分も多いんですが、わたしがこの関係性ですきなところは信頼関係ですね。相手がなにをしようが、どうなろうが、あるいは将来別れることになっても、信頼しているしお互いの人間性は疑わないよという。

例えば、よく「妻/夫が異性の友達と二人きりで食事に行ったりする」というのがダメだとかいう話を聞くんだけど、何がダメなのか全然わからない。親密な異性の友達なんて、むちゃくちゃ貴重ではないですか。

「信頼関係」と言うのが「裏切らない」「浮気しない」というような意味で使われることが多いですよね。それは信頼というよりむしろ条件では?


15年ほど前、東欧でとあるラブラブカップルと話していた時「自分たちは思ったことを隠さないことにしている、 例えば誰か他の異性を魅力的と思ったときなども」 と言っててびっくりしたことを鮮明に覚えてます。
こんなに愛し合って一緒にいるのに、他の誰かを魅力的に思う? しかもそれを言い合う?!アタマおかしい??と当時のわたしには意味不明のお話でした。 いやなんのために?!と言ってけっこう突っ込んだんだけど、要は相手を知るためにということだった。

いまなら理解できます。
信頼関係があるからこそできるんですね。 わたしも「結婚」という枠に相手を縛りつけたくないし、自分も絶対縛られたくない。(都市部はだから結婚制度そのものが消滅しつつありますね)

 

親子関係も同じ。同じ「信頼してるよ」でも、「なにがあってもあなたの味方」なのか「うまくやってくれるはず」では内容が全く異なる。信頼にプレッシャーを加えると台無しです。

 

 

 

 

じゃな!(岡山弁で同意の意味)

信頼関係だ!てか、相手を信頼しよう、理解しようとする姿勢だ。

信頼関係ではなく、 型に入れて縛ろうとする。 目に見えないものを確かなものにしようという努力がない。 目に見えるものがあればそれで安心。

今回のwifeに母親との友情みたいな話があったじゃないですか。「ひょえー」だ。私の母親は、私のことを理解しようなんて思ってなかったよ。(でも結局私も母親を理解しようとしていなかったというオチもあるが)

私は子供達から信頼されているか・・・なんか自信ないなあ。ちなみにつれあいからは信頼されていると思っている。つれあいのことも事男女関係については信頼している。金銭面ではやや疑っている。

 

 

あと最近すごく疑問なのは、日本では何かと男女を分けたがる。 すでに幼稚園の頃からなにかと男女を分けるし、親も園もみんな「異性」をすんげー意識してる。まるで別の生命体といわんばかりに。
なんで、仲良くなった友達が同性なら当たり前なのに、 それが異性ならストレートに「デキてる」的な扱いに飛ぶの?! なぜまだ4、5歳の幼児に偏った大人の感覚を押し付けるの?(恋はありえるけど、仲良いから恋心とは全然限らない)
大学では男女がキッチリ分かれていることに驚いたという話もよく聞くし、既婚男女はあまり交わらない。だから今もママ友は当たり前なのに対して、 パパ友はそう簡単にできる気配ナシ。

男女なんて、子供にとっては一番身近に触れられる”多様性” の原点なのに。 はなから違うものと認識させるなんてもったいない。わたしも昔は、男と関わるのは親族か恋愛相手のみ、と思い込んでいたから、あれは本当にもったいないことしたなーと思っています。

 

 

これも実に面白いねえ。でもこれは文化の差だとは思うよ。 きっと日本では同質なものがあつまって作る集団、 が社会の基礎単位だったんだろうね。 元々欧米のようにペアが単位じゃないんだよ。 だから結婚っていっても婚家の女社会に所属するというのが大きな意味で、男とのかかわりはなくてもいいんだ。日本で「恋」 というのはひと時のアソビのようなイメージかもしれない。・・・ 日本人の性質には「異質なものにかかわらない」 というのがあるのかなあ。性別が異なるってのはそりゃあ大きな違いだからねえ。何だか面白くないねえ。

 

 

(続く)

 

 

その日メモ :

 

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 カッコよすぎじゃろ