戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

志村けんとジェンダー意識を考える

 

3/29 志村けんがコロナウイルスにより亡くなった。

流行りに疎い戸目子でも、志村けんを見て育ったと言えるくらいにはデカイ存在だったので、ショックを受けて改めて彼の影響力を実感したところ。

 

 彼の訃報を知って思い浮かんだのが、今年1月にヘリコプターの墜落事故で亡くなった元NBAコービー・ブライアントだ。バスケといえば彼を思い浮かべる、戸目子の一番好きな選手だった。

あの日は何故か恐怖した。戸目子が墜落事故に敏感というのもあるが、あんな無敵オーラバチバチのコービーでさえこんなあっけなく死んでしまうのか、と。

彼は10年ほど前にレイプ事件を起こして裁判沙汰になった過去がある。そのことをもって一部の人たちがSNS上で「レイピストが死んだ。終わり。」というような書き方をして議論になっていた。

性被害者からすればもちろん、そうでなくても、レイプ事件を起こせばそれがどんな英雄であってもただのレイピストであり、死んでも悲しみもないと思う人たちがいる。

不謹慎ではという意見もあるが、被害者を始め多くの人たちは今も後遺症を抱えて生きているのに、当人が亡くなったからといってその人たちの声を封じてはならないだろう。

実際コービーは、その死を悼んで多くの人が多くのものを捧げていて、それはそれで充分じゃないかと思う。

 

志村けんは大好きで、昔は母も兄も一緒に見ていたけど、今となってはアレを見て育つというのが空恐ろしい。そしてアレがもたらしたものは今も戸目子の中にしぶとく住み着いていて、完全に抜き出すことができないでいる。

その日、昔の動画を少し見返してみた。石野陽子と共演しているもの、女性が出てくるコントのほとんどに、呆れ、怒り、納得、失望という感情がオモロさと重なって出てきた。それは子供のときから記憶してた内容よりはるかにおぞましかった。そして、特に戸目子の親世代を中心に存在する、あの石野陽子氏による妻キャラを模しているのかそのものなのか判別しがたい人たちに思いを馳せた。人間の適応力ってすごい。

 

その後ふと思った。当時の強烈な女性差別や女性軽視社会の中で、仮に志村けんがその有害性に気づいたとして、彼一人に何かできただろうか。バカな(フリした) 妻を叩いたりそのバカさゆえ愛でたり、リアルだと犯罪になる行為に対して女性に嬉しそうに振舞わせたり、たくさんの若い女体をモノ扱いして喜んだり、それが日本中で大ウケしてた状況で。

”優位な(恵まれた)立場でいる”というのは、よほど意識しないかぎり鈍感さがセットになりがちだから。

 

というようなことをひとしきり夫に話すと、彼はNOはNOという意見だった。むしろパワーを持った立場だからこそ人一倍「正しさ」に敏感であるべきで、時代や人々がどうであろうと、行った間違い自体は許されないと。

例えばアインシュタインは当時、黒人が遺伝子レベルで劣っているというような発言をしていたらしい。その当時どんなに黒人差別が当たり前だったとしても、彼の間違った発言に正当化の余地はない。それと同じことだと。

 

 

 

 

戸目子に娘ができてから、身の回りに溢れるジェンダーバイアスやセクシズムにかなり敏感になった。放っておいたら周りは男の子主体のものや "男の子の後に女の子"という暗黙の了解、そして女の子に押し付ける定型イメージに溢れまくっている。もし戸目子の子供が男の子であっても、その優位な立ち位置に当たり前のように置かせてしまうことに違和感を持っただろう。それは決して彼のためにはならない。

 

幼稚園に通わせ始めた一年目は、これでかなり悩んだ。娘が日本語がわからなくて、何が起こっているのかわからないことに逆に安堵したほど。

また、娘と遊んでる男の子に「女の子には優しく」みたいな親御さんの発言も目立つけど (しかも大抵娘に非がある)、それが本心からでも気遣いでも、そのような理由で容赦される子供や理不尽さを押しつけられる子供はどうすりゃいいんだ。

その"優しさ"は女の子を、持ち上げつつ突き落とすことなんだという認識が広まるのはいつなのだろう。

 

戸目子は昔、ノンタンを女の子だと思い込んでいた。子供ができてノンタングッズに触れる中でそうじゃないと知ってビックリ仰天したけど、もし当時男の子だと知っていたら、あそこまで親近感を持てただろうか?

子供向けの、特に教材になるようなアニメや雑誌の主役はほとんどが男の子で、女の子は脇役か妹役ばっかり。キャラクターのバリエーションも、男の子は多種多様なのに対して女の子は定型のものが多い。(優しくてしっかりしてるけど、少し不安げで守ってあげたくなるアレ。可憐キャラ。)

特に、みんなが好きになるオモロ系キャラは決まって男の子だ。子供時代、戸目子の周りはオモロ系女子でいっぱいだったのに!現実の方がはるかに先鋭的。(というよりそっちが自然)

 

国内の作品で娘のお気に入りのものは、しまじろう、コんガらガッち、おしり探偵、ノンタン、スーパーマリオ、アンパンマンと見事に男性スターの顔ぶれ。プリンセスは大好きだけど、プリンセスのテレビアニメや本にはなぜか興味を示さない。

そういえば、幼児にすでに見られる(大人の影響だろうけど)「女モノ=男が好きだと恥ずかしい」みたいな感覚は、それ自体差別的なのだ。"男まさり"というのは良くて、"女々しい" というのは軽蔑の対象なのに似ている。

 

一方で、4歳頃から性別に敏感になってきた娘は、誰が男で女なのかを意識するようになった。(性別に限らず、肌の色や文化の違いなどにも。誰が自分と似ていて誰が異なるのか識別し、やはり自分に似た人に親近感を持つ傾向にある。注意深く見守っていく所存。)

また、大好きなキャラが女の子でないと知って落胆することもある。なので、ニュートラルなキャラ(ノンタンやコンガラガッち等) は、「ぼく」とか「オレ」を名前に置き換えて読むことで、できるだけジェンダーに意識を向けないようにしてるけど。字が読めるようになるまでの時間稼ぎでしかないだろうけど。

"当事者" 感覚というのは大事。

 

そんなこんなで、子供と一緒に見る映画やテレビシリーズや買い与える本などは、できるだけ意識「された」ものを選ぶようにしている。

洋服や身の回りのものには、特にこだわりを示さないので+α で多様性を持たせるようにしている。

おもちゃに関しては、彼女の嗜好はなかなか多様やなぁと思いながら都度欲しがるものを与えてきたけど、年中さんになった途端に突如ガーリーな趣味に火がついて極端に偏り始めた。友達の影響を直に受ける歳ということもあり、ご多分に漏れずプリンセスとピンク三昧の一年となった。その年、初のサンタさんまでアナ雪グッズをくれたもんやから、5年遅れでレリゴ-レリゴ-やっていた。

 

これからこうやって色々と変化していくのだろうと思うと楽しみで仕方ないけど、どんな子になっても、自分は何にでも挑戦できるんだという感覚を持っていてほしいと願う。

 

 

 

一年前、東大の入学式で相変わらず期待を裏切らないブチカマシを披露した上野千鶴子氏による祝辞。このスピーチにはすべてが詰まっているし、戸目子を始め多くの女性の様々な声を一気に代弁してくれたという意味で、個人的にとても救われた思いのする一件だった。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

 

有名人のスピーチといえば、メリル・ストリープも魅力的。

ジェンダー関連だと、10年前のバーナードカレッジの卒業式のものがとても面白かった。(英語)