戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

子供の隣に並んで見える風景


6歳になってから、コミュニケーションがだいぶ上手くとれるようになってきた娘と、日々の会話をチョーーー楽しんでいる戸目子。

待ってたんです、この時を。

彼女は発語が遅めで、2歳になっても3歳になっても喋ったり喋ろうとする気配はあまりなく、よく自分の世界に没頭していました。
そんな頃に日本の幼稚園に通いはじめたけど、年少さんのときは全く周りを見てなかったからか、年中さんのある日突然、「まわりにいーっぱい人がいる...!!」と伝えてきた我が子。
それからは好きな友達もチラホラできて、限られた日本語を駆使して精一杯遊ぶ姿も見られてホッとしていた頃、コロナがやってきて半年間の自粛生活に。

ステイホーム期間中ほとんど気にかけてなかったんだけど、この半年間は子供たちにとってかなりデカかった。
というのも、感染状況が一段落して久しぶりに覗きに行った年長さんでは、クラスの子供たちの言語能力がビックリするほど伸びていて、逆に娘の日本語はすっかり抜け落ちてしまっていました。
たぶん、娘にとってもこの衝撃は大きかったんだろうと思います。
もともと超敏感な娘は、そこから一気にすみっコぐらしのねこみたいなシャイな性格に変わっていきました。
(その一年後の今、すみっこ大ファン!)
園では前ほど友達と喋らなくなり、先生や周りの言ってることがよくわからないという状況の中で、自信が少しずつ落ちていったように思います。
以前から状況判断や情報処理能力、相手や場を読み取るスピードもゆっくりしているので、大人数でなにかをやる場面ではよくフリーズしているようでした。
また、白か黒か!みたいな世界を生きていて、その中間が許せないので癇癪もかなり激しい。冗談が通じにくいので、普段冗談でしか会話していないような私たち夫婦もかなり気をつけています。

 

戸目子は最近になって、何か子供の問題を前にするとたまに昭和脳が顔を出し、「怖がりの子はちょいとビビらせよ、冗談の通じん子には冗談に慣らせよ、根性なしには試練を!無礼には罰を!目には目を!歯には歯を!!」とうっかり勢いづきそうになるんだけど、その有害性の自覚はあるので気をつけてます。
一方、夫は子供に「罰」を与えることの一切を良しとしないので、娘を押しもせず引きもせず、徹底した「受容+支え+励まし」で関わる。だから、娘が母に癇癪を起こした時などは戸目子の(狭い)許容範囲を出そうになる前に助け舟を出します。
マジで、夫の存在なしでは戸目子は日常のあらゆるシーンで正気を保っていられなかったろうと確信してます。
と同時に、戸目子の親世代から今もまだ一部で続く母親のワンオペ育児の過酷さを思います。
子供として、かつて自分の母親の未熟さを色々と責めてはきたものの、人間どんな立派な人であっても状況次第ではあっけなく崩れてしまう脆いものなのだと、とことん実感するところ。

 

今年4月からインターの学校に通い始めた娘。
本人はとても楽しく通っているけど、相変わらず子供同士のコミュニケーションには消極的で、半年たった最近、たまにバイバイなどの挨拶ができるようになったところ。
また、先生や子供たちが突発的に娘の身体に触れたりするとひどくビックリする仕草があると先生から報告を受けたりもしました。

家ではおしゃべりな娘は、ここ最近細かな心情を少し伝えられるようになってきました。
いつもと違うことが起きたり、大人数がわけわからんことをしてる場面で内心パニックになってしまうと教えてくれた。
パニックになってたんやね😢
伝えてきたらきたで、その痛みがわかってヒジョーに悲しい。
あと、同じ動作をずっと繰り返す遊びが安心するみたいで、一人や親とならいいけど、それに付き合ってくれる子供は限られるから、たまにそういう子が出現すると親的にやたらとありがたく感じたり・・
これまでの数年間、周りの子供たちはみんな娘にとても優しくてそれがホントありがたく。でもこれから学年が上がるにつれてもっと複雑になっていくだろう未来を案じたり・・これはみんなそうかもやけど。
てかいつのまに戸目子はこの "ありがてぇスタンス" で周りの子供たちと接するようになったんだ?と思ったり。
そしていつも娘につきあってあちこち赴いてるはずの自分が娘より100倍楽しむ結果になるし・・

親目線だけで見ていると悩みは尽きないけど、娘の目線で見てみたら事態は驚くほどシンプルだったり、むちゃくちゃゆっくりだけどちゃんとこの世の中に自分の立ち位置を探そうとしている。
戸目子はできるだけその旅の邪魔にならんよう見守るのみ。

何よりとにかく娘は夫譲りの"good-hearted"な性格。賢く、面白く、ベターになりたいという向上心もあり、6歳の今は日々目まぐるしく成長しているので、そこまで深刻に心配はしていません。
ただ、毎日を少しでも不安や恐怖に萎縮せず過ごせるようになったらいいなと、様子を見ながら色々と計画を練ってる戸目子です。

 

 

戸目子自身の一番最初の記憶は一歳の誕生日あたり。人差し指を立てて一歳を主張していた頃の「断片的な空間」が思い出されます。
その頃、言葉で考えてはいないんだけど、「疲れたな...」と感じていたことが感覚として蘇るのです。(一歳のときから怠惰)

言葉を習得すると、特に大人と意思疎通ができて、表現の幅が広がりアンテナも伸ばせるから便利だし、子供の心も安定するだろうなと思います。
でも、言葉を持たずに世界を捉える時期というのは限られているので、その時期が長い子供はその子なりに面白い世界を生きているんだろうなと思います。

 

 

戸目子自身も、色々と問題を抱えた子供だった。当時は脳の個性や発達障害などがまだ広く知られてなく、(一部を除いて)人権の認識なんか無いも同然だった中、問題のある子供はひとまとめに「出来ない子」「出来の悪い子」とスルーされがち、かと思えば極端に精神異常の烙印を押されたりした。
教育の場において最適化された (と大人が信じている)枠に収まらない子は、その責任(原因)は全面的に子供側にあると短絡的に捉えられがちだったように思う。どう考えてもむちゃくちゃ。

小1のとき、場面緘黙症のノンちゃんという女の子がいて、家で家族とは自由に話せるけど学校では全く話せなくなる子で、その症状は重かった。
ノンちゃんが学校を休んだある日、担任の先生がおもむろに、黒板に大きなハートをふたつ描いて「左のハートが、みんなの心」と言ったあと、右のハートにヒビみたいな欠けを入れて「こっちがノンちゃんの心。ちょっと壊れてるんだけど、みんな優しくするように」みたいなことを言った。さすがに小1の戸目子も「?」と感じたのを覚えている。

正常とそれ以外、できる子とできない子、と子供たちを大雑把に分断して扱う大人たちの何気ない暴力が、多くの子供たちを傷つけていたなと、こういったシーンを思い出すたびに心が痛む。
とはいうものの、当時6歳だった戸目子は自分の問題に苦しんでいたから、同じように問題を抱えた弱い子供が嫌いだった。ノンちゃんを見ていると自分の弱さを突きつけられるみたいで。

今はもっと一人ひとりのケアが手厚くなったと思いきや、多くの教育現場では時は停滞している模様。
今年の夏に公立小学校を2クラス見学したときも、明らかにサポートを必要としている子ほど先生らから最も雑な扱いを受けていて、かといえば、のびのびと表現豊かな子たちは何かと萎縮するような扱いを受けているのを目の当たりにして、一体学校はなにをしてるんだろうと思った。

最近、理想論をことさら嫌う風潮があるけど、理想論すら述べられないような社会にどんな希望があるというのだろう。

 

 

 

 

 

 

その日メモ :

今年もやってきたハロウィン🎃
金土日と3日連続のイベントに娘もちょっとウキウキ。

2年前からハロウィン=バットマンが定着してる娘に、ディズニープリンセスとかもいっぱいいるかもよ?と振ってみたら、
「えディズニープリンセス⁉️ Saviour (救い役) にはならないからね‼️」と頼まれてない役をむっちゃ断っていた。

 

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ポーズとるとき以外は超慎重なバットマン