戸目子のブログ

大人になった娘が読むことを想定して書く、日常や過去の覚書き

子どもをつくるという狂気

 

考えれば考えるほど、子供を作るということが狂気の沙汰であるとしか思えない。

戸目子は年に一度、子どもがほしくなる季節があって、それが秋。今だ。今年も先月からそのことで頭がいっぱいなのだけど、いつも考えるうちに緊張してきて断念する。それを繰り返しながら数年たっている。

 

まず、人間がひとり生まれるということは、いつか必ず死ぬということだ。一般的に、卵子を受精させるというのが比較的簡単であるのに対し、人の死というのはかなりの「おおごと」であり、本人はもちろん周りをも巻き込んで耐え難い苦痛と恐怖をもたらす。それが自分の子どもと考えるだけで気が狂いそうになる。

親である自分が先に逝くとて、子もいずれ死ぬことには変わりない。

 

ほななんで一人目は産めたかというと、妊娠が計画的ではなかったからです。発覚時は驚きとショックでおののき→その神秘性に感動し→できたモンをすでに全身全霊で愛おしんでいた。つまり何も考えなかったから達成された、動物の業。

 

なんにしても、戸目子は物事を計画的に成し遂げることが苦手なのです。

 

二人目が欲しいという理由は探せばいくつか出てくる。でも、その理由のうちどれくらいが、生まれてくる子供側のタメになるものだろう?

人は動物と違う、知能が高く、未来を予測できると言うけれど、だからといって「未来の子のために」子どもを持つわけではない。子をもつ理由というのは、どこまでも親側中心の理由なのだ。かつて「国家・社会の発展のため」というのも子を持つ理由だと言った友人がいるが、それはそれで個人の発想としてはなんか恐ろしげである。

 

 

 

そんな折、購読している朝日新聞のとある記事を読んだ。凄まじかった。

 

www.asahi.com

 

日本の敗戦が確定した頃、アジア各地にいた自称「開拓団」の日本人たちは行き場を失った。それまで加害者側だったのが、被害者側に変わった瞬間だ。

当時少年だった高橋章さんも、家族とともに徐々に追い詰められ、最終的には集団での逃避行となる。湿地帯を延々と歩き続ける途中、「病人、歩けない人、5歳未満を処分せよ」という団長の一言で、我が子に手をかけなければならなかった母親たち。高橋さんの母親も、"その場で2歳の息子の首を絞め、5歳の娘を川に放り投げた。鬼となった母の目はつり上がっていた──。"

 

 

 

こういう記事を読むたびに、社会(ヒトの集団)というものや、人間という生き物の "アテにならなさ" が恐ろしくなる。そして、今の政権や世界情勢を見ていて、この記事のような悲惨な「戦中戦後の話」が今後、未来の世代を含めた自分たちに起こらないとはまったく言えないのだ。

それとは別に、地球温暖化と資源不足などによる人類の崩壊は確実に迫っている。こちらは予測可能なので誰もが知るところなのにもかかわらず、それがコロナのように "今" あるいは一寸先の恐怖でもない限り楽観的になってしまうのが「人間」なのだろうか。

いや、まだ何も判明していなかったコロナという "一寸先の恐怖" でさえ楽観的な人は少なくなかった。これは、例えば「確実に死ぬと理屈ではわかっている」飛行機事故などでも、人間はその死の瞬間まで「自分は生き残る」という希望を捨てないものという研究結果があったが、それと同じ類のものだろうか?根拠はないけど自分(たち)だけは大丈夫なはず!という、希望。

 

恐怖心というのが生物にとって一番原始的な「感情」であるはずなのに、こと子孫を残すとなると希望的観測が凌駕するのはなぜだろうか。たった二百年前くらいまでは、産んだ子供の半分以上は幼くして亡くなるとかだったはず。

もし今の時代に子供の生存率が50%以下とわかっているとしたら、産むだろうか。とりあえず、我が子を幼くして失う恐怖に勝てる自信がないことだけは確かだ。それでも、この子は生き延びる!という希望に懸けて産むのだろうか。

それとも「世の中そんなもんだ」と思えば、恐怖心すら麻痺する(操られる)ほどに、ヒトには順応性があるということか。自分の娘を殺すことが "ふつうのこと" である国が存在するのだから、やはり順応性の問題かな。

「我が子を失うこと(というより我が子が恐怖に苦しむこと)が最大の恐怖」と思っている戸目子も、生まれた場所が場所なら、まったく別のものが最大の恐怖になっていただろうか。恐怖心そのものは人類共通だけど、なにに恐怖するのかは、生まれおちた社会と環境によってある程度決められてしまうということなのだろう。

 

 

 

東京での戸目子の日常はとても平和である。

それが、可愛い園児に囲まれた日常であればなお、これ以上ない平和感だ。子供たちやその親御さんと関わり合う時間の中では、この世の平和がこうやって永遠に続くのだと錯覚してしまうほどの平和具合だ。

 

子どもという存在は、大人にそういう錯覚をもたらす効果があるのかもしれない。人が芸術という「まやかし=イリュージョン」の存在を求めるように、子どもの存在を求める部分もあるのかもしれない。人は、何が起こるかわからない未来を見据えて生きる動物だが、それゆえに「希望というイリュージョン」が必要なのかもしれない。

 

 

それにしても子どもというのはとにかくむちゃくちゃ可愛い‥‥ まだ存在していない命にとってはどうでもいい話だが、産まれてしまえばもう後戻りはない。大多数の親は、ソレを全力で愛するようにプログラムされている。

 

そのプログラムに乗るか、あるいは世の中を現実的に俯瞰し乗らない判断をするか、で揺れる秋。このふたつはどちらも、個人の人生においては同等に意味のある選択だと思います。

 

 

 

 

 

その日メモ :

ついにきた、米大統領選。戸目子家の将来にも影響するかもしれない(というか全世界が影響される)大事な日である。

心の奥では朗報を予期してるが、前例がことごとくアテにならないバカ大統領のこと。どれくらい選挙妨害してるのかも不明。選挙結果をどう処理するのかも予測不能。できるだけ心をにしておく。

 

先日、娘のお迎えに行く途中で、自転車の後ろに置いてたバッグを盗まれた!いや、落としたのかもしれないけど。

たっった五分の間に起こった出来事。すぐ引き返して探し回ったけど見当たらなかった。

ここは日本だし、そのまま返ってくるかもと最初は楽観していたが、iPhone を紛失モードにしても一向に連絡がない。(*紛失モードにすると何しても開かない上に、"拾われた方、このボタンを押して繋がる番号に連絡してください" など自分で書いた文面が固定表示される)

別のスマホから何度かかけ続けてみたが、電源は夜中になってもずっとオンである。てことはGPS機能を使えば居場所がわかるってことを知らないタイプのヤツだ。

(のちに判明したが、スマホのGPS機能を夫にだけシークレットにしていた。オットがそう設定していたらしいのだ。腹立たしい気遣いだ。だからもし戸目子個人の iCloud から検索かけていれば居場所は簡単に判明できたのだった。)

 

翌日、警察からの電話で捨てられたバッグが見つかったと連絡があり喜んだが、しっかり現金と通帳とパスモが消えていた。現金だけならまだしも、使えそうなものを吟味して全部盗ったってことは、良心を持たないタイプのヤツだ。

とりあえず家鍵のコピーを作られた場合のために、鍵の交換をせないかんなった。

 

 

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最近外に興味津々のミスタ-宮夫

彼が迷子になった場合のことも考えとかないかん